迷路

原稿脱稿後、二日間、腑抜け。心の隙間を物欲が襲う。今のところは禁欲成功。北九州から元司書うた村住人上京。自由が丘で四方山話。秘技とりならべの話に心ときめく。「とりならべ」の画像を後日送ってくれることに。(乞うご期待)。

九十歳の小島信夫の最後の長編小説「残光」の結びは、こういうふうになっている。
十月に訪ねたときは、横臥していた。眠っていて、目をさまさなかった。くりかえし、「ノブオさんだよ、ノブオさんがやってきたんだよ。あなたはアイコさんだね。アイコさん、ノブオさんが来たんだよ。コジマ・ノブオさんですよ」
と何度も話しかけていると、眼を開いて、穏かに微笑を浮べて、
「お久しぶり」
といった。眼はあけていなかった。

なんとも言えぬ、微妙に奇妙な味わい。眼は開いていた、でも、あけていなかった、小島信夫がそう書くなら、そうだったのだろう。全編、別に何にも複雑なことは書いていないのに、瞬間瞬間にふっと湧き出して行間をゆらゆら漂うこの奇妙な味わいに気を取られて、いったい何を読んでいるのか、何が書かれているのか、見失う。脳みそが、くにゅーっと、よじれる。わけがわからん、なのに、微妙奇妙な味わいに引き回されて、脳みそがよじれて痺れたまま、読み続ける。やめられないんです。瞬間瞬間に書くべきことを書いていく<同時進行>小説。もちろん、現実と文字表現との完全なる同時進行は成立つはずもないのだが、書いている瞬間瞬間のリアリティを写し取る小島信夫の言葉は、実は現実とのずれ(これは現実と自分を結びつけている「問い」と言い換えても良い)のほうへといつも引きずられていって、右往左往、というより、逸れて、ずれて、くねって、ゆらいでいく。麻薬のような読み心地。

そういえば、ついこないだの、仲間内の読書会(通称無茶ヨミ会)で、ブローティガン「不運な女」を読んで、この語り口、ひたすら行間をゆく筆の運びは、日本の作家で言うなら誰かという話になり、ブローティガンの他の作品はとりあえず脇に置いて、「不運な女」に限って言えば、これは小島信夫に似てはいないか、というような思いつきを私は口走ったのだが、今でもそのような気がしなくもない。ブローティガンは「不運な女」について、「不運な女」のなかでこう呟く。

この本は中途半端な疑問が不完全な回答に繋がれた姿で構成されている迷路だな、とわたしは感じる。

私も、自分自身が迷路だと、しばしば感じる。