そんな感覚・会話・瞬間

エドナ・ウェブスターへの贈り物』(ブローティガン)を眺める。読むのではない、眺めたり、触ったり、さすったり、転がしたり、見つめたり、まさぐったりする。言葉は必ずしも読まなくてもいいじゃないかと、ブローティガンの言葉を眺めながら思う。

ぼくらはだれもが幼い子どもだったよ。

…………
ぼくは窓の外に目を凝らす。
小さな男の子が見えた
古家の正面のポーチにすわって
小さな男の子は両腕で白い猫を抱いていた。
ぼくは泣くのをじっとこらえた。
窓の外を見つめ
世界が苦もなく滑るように通りすぎてゆくのを眺めていた。

成長した「幼い子ども」たちが、滑って通りすぎてゆく世界を見送りながら、途方に暮れて立ち尽くしている姿が、心に焼き付いて、離れない。そのなかには、私自身の姿も見えるような、あるいはそれは残像に過ぎないような、(私はもう別のところに居る)、そんな感覚。


『残傷の音』(李静和編著 岩波書店)を聴く。まだそこはかとなく聴いただけ。5月19日の夜、渋谷で、李静和さんから直接手渡された『音』。この日、李さんとは初めて会って、初めて話したのだけれど、それは話したと言うより、やはり、お互いの「音」を「聴いた」「聴きあった」というほうがいいかもしれない。言葉は、言葉では言い尽くせないことに向かうときの道しるべ。言葉と言葉の間でひそかに響く音に耳を澄ます。そんな会話。


自分がどこにいて、どんな人で、何をしようとしているのか、何をすべきなのか、何をすべきではないのか、そういうことが不意にわかる瞬間がある。この数日の間のどこかで、これまで生きてきたなかで、何より私をしみじみと感動させた、そんな瞬間。

翻訳は、ようやく、4分の3までたどりついた。


早く島に行こう。