ゼロ

「なぜ忘れられた彼らを甦らせないのか。愛情の不足? 愚かなことをいいますね。今どき言葉にし文字にしないで、どうして愛など生まれてきますかね。ぼくとあなたの間柄みたいなものではないですか」(『寓話』序より)

小島信夫『寓話』、ようやく読了。これにはまって他のことが手につかなかった。なのに、読み終わったとたんに最初に戻って、もう一度読みはじめたい衝動に駆られる。あとがきまで含めて564ページ、1980年から1986年まで、月刊の文芸誌に断続的に連載された作品。あとがきを読み、その6年前に書かれた序に返る。繋がっている。作家が書く一個の作品なんだから、当たり前だろうと思われるかもしれないが、一度書いたものは編集者に渡したっきり読み返さぬという作家の(これも破格なこと)、6年の時を挟んだ文章が見事に繋がっているということは、ただならないこと。要は何が繋がっているのか、ということであるが、具体的なストーリー、筋書きがどうこうというレベルのつながりではない。書くということ読むということ語るということ、それが生きるということそのものである作家の、生きる姿勢(=書きぶり読みぶり語りぶり)がまったく揺らいでいない、そういう繋がり方。小説は現実と同時進行で、書いている人間も書かれている人間も、自在に文章の内外を行き交う。しかし、書かれていることは本当に現実なのか? 書かれたから現実なのか? その境界も曖昧。

「ぼくのいうことは、たった一つのことで、それ以外は何もないのです」(『寓話』第55話 小島信夫が書くところの森敦の言葉)

「「両部マンダラはいずれも絢爛眼を奪う彩色に満ちている。この彩色はむろんなにごとかを語っている。しかし、これに眩惑されず、その暗号の真意に迫るために、かくて語ろうとするところを沈黙させねばならぬ」(同じく、『寓話』第55話 小島信夫が書くところの森敦の言葉)


小島信夫の、それ以外は何もないたった一つのことを語る暗号として、『寓話』は書かれている。
実際、『寓話』そのものが、過去の作品の主人公のモデルとなった実在の人物から送られてくる暗号で組まれた手紙を解読しては小説の一部として発表するという体裁を取っている。暗号を解くための乱数表は、作家の過去の作品であったり、既に解読された手紙の一部分であったり。先行するあらゆる文章が暗号であり、暗号を解く乱数表となり、新たに書かれる暗号(=文章)のなかに溶け込んでゆく。

「これが完結しながら無限であり、無限でありながら完結する二次元の仏教空間である」(『寓話』第55話 小島信夫が書くところの森敦の言葉)

『寓話』中の小島信夫と森敦の対話(第43話)
小島「暗号というのは、アラビヤ語でSifrというのだ、というのです。これはleer、つまり空虚ということを意味する。そしてアラビヤ語の数の体系では、ゼロ、つまりNullの記号だ、というのだそうです」
「仏教なんかでも、空というものに、空観というのですけれどそこに構造のすべての源があるのですから。アラビヤの数の体系とあわせて考えても、まあ似たようなものでしょう。座標軸の中心はどんな場合でもゼロですから。そこに構造があるということなのですから。あなたも、もともとよく知っていることで、その構造によって生きていたり、仕事をしたりしているのですよ。気がつかないだけのことではありませんか。暗号というのは、その構造を記号化したものでしょう。ですから、構造が分ってしまえば、暗号は解読できてしまうということになるのです。ナゾというものは、解けてしまえばナゾでもなんでもない。解けないナゾというものが何であるのか、ということも、小島さん、あなたも知っているはずですし、解けたと思っても、また分らなくなるということが面白いのではないですか。ぼくたちは、いわばそんなふうにして生きているということだと、ぼくは思うんですけど」

森敦はさらにこうも言う(言ったと小島信夫に書かれる)。「いいかえると意味が意味としての意味を失うところに、構造があるといってもいい」

『寓話』を読み終えた(解読した)と思った瞬間に(=『寓話』的世界の座標軸の中心に立ったぞと思った瞬間に)、すべてがゼロになる。ここからまたはじまり。生きるということのナゾを追って永遠に繰り返されるゼロの到来。永遠の暗号。

森敦が言うところの「完結しながら無限であり、無限でありながら完結する二次元の仏教空間」はメビウスの輪のように認識され、その表裏のない八の字形を、たとえば年に一度折り返していく、(森敦の数学的説明は私には難しすぎるのだが、とにかくきれいに繰り返し八の字形に折り返していけるということが書かれている)、そして、弥勒下生のときまでに五十六億七千万折り、だという森敦の言を小島信夫はあらためて想い起こす。そして、「涙がこみあげてきた。それから私はうつらうつらし始めた」。これが小説『寓話』の最後に小島信夫が置いた言葉。

なにゆえの涙か、わかるような気がする。わからないような気もする。どちらにしろ、ゼロ。