故郷を持たぬ言葉のために

慌しい一週間。その締めくくりは、本日、渋谷にて、親しい友人が集まっての、再出発会。それぞれに転機を迎えている30代、40代女子の、明日に向けての壮行会。がんばろうねぇ、みんな。

訳稿見直しの合間の読書の友は、『「在日」と50年代文化運動 幻の詩誌『ヂンダレ』『カリオン』を読む』(ヂンダレ研究会編 人文書院)。



見るからに強そうな
鉄仮面よ。
かぶとを脱げ!
そして陽に当れ!
そして色素をとりもどせ!
(『ヂンダレ』第18号/1957年7月 金時鐘



政治的プロパガンダのサークル誌としてスタートし、やがて画一的なプロパガンダ詩から、個の(それは同時に普遍でもあるのだが)生に根ざした切実な表現をめぐっての闘いの場となっていった、在日の表現者たちの詩誌の記録。60年代生まれの私が知らぬ、熾烈な政治の時代の記録。
政治の時代から、今に至るまで、ずっと変わらぬ問いがここにある。若き金時鐘梁石日らが発した問い。
「在日」を生きるということ、「在日」を生ききることから固有の、そして普遍の表現を産み出すということ。与えられた世界観とその言葉にみずからを収めることなく、みずからの生きる足場を見つめ、同時にそこから見える世界を真摯に語ること。(ただし、「在日」という言葉もまた、今や、問い返さねばならない言葉ではある)。
これは、政治の時代を知らぬ、遅れてきた世代もまた共有すべき問いであり、命題。
若き金時鐘の語る「無定形の定型詩」(定型の思考から産み出される言葉の群れ)への嫌悪もまた、忘れてはならぬもの。
言葉を出来合いの故郷に安住させてはならない。

若き金時鐘らの言葉を読むうち、彼らがなぜ小野十三郎に惹かれたのかも、痛切なほどに伝わってきた。

金時鐘の長編詩「新潟」を読みなおそう。