「日本語にあらがいつつ、それでも日本語で生きねばならない一人の在日の表現者」
という自己規定する詩人金時鐘がいる。
この詩人が尹東柱を語れば、当然に異なる容貌が浮かびあがる。
時代の情感に流されてのまれて歌うのではなく、
自分の抒情で歌うこと。
それ自体が、一つの抵抗となるということ。
2008年2月16日「詩人尹東柱とともに集う 2008」シンポジウム@立教大学
の金時鐘の言葉から。
尹東柱の抒情の質を問いつつ。
主情的な情感から切れてなお流露している律動こそが、見出さねばならない現代詩人の抒情なのだ。詩人の、ひいては人の思想の、旧い、新しいはこの抒情の質によって見分けがつく
感情のおもむくままに流動する情感に「待った」をかけ、何につきうごかされている気分なのかを、自ら明かしたてているものが現代の抒情だ。情感のみでは批評は働かない。
植民地の民として、禁じられた朝鮮語で詩を書く青年の詩が、後世に「抒情詩」として読まれるのはなぜか?
「抒情的」でいられる余地などなかったはずなのに、なぜ?
そこには、日本語による情感、抒情に覆い尽くされた時代=「朝鮮語が死語でしかない」とされた時代に、それとは「別の(朝鮮語の)リズム」が、尹東柱に体内に、けっして消えやらぬ力で脈打っていたことがはっきり示されている。尹東柱をただいとおしむのではなく、彼の、まみれることのない抒情の質に思いをいたして、あらためて読まれる尹東柱の詩であることを念じている