誰でもそれぞれの死後を生きている。

古井由吉『野川』。

受け取りそこねた沈黙がある。その沈黙に耳を澄ます。そこに聞き取る何かは、この世のものではない何かのようである。それを聴く自分自身もこの世のものではないようである。

「わたしは一滴の水となった。滴となり大海に失われた。わたしはもはやこの滴すら見出せぬ」という中世イスラムの神秘家の言葉を引きながら、「『わたし』の一滴ももはや見出せぬのもまた、ほかならに『わたし』ではないか」
と、どうしようもなく自分にこだわる自分を手放すために、作家は受け取りそこねた沈黙へと身を沈めていくようでもある。沈黙に身を沈めるのは容易ではない。

沈黙へと身を沈めてゆくその道行は、日の暮れの野川の土手道。沈黙は水のように流れている。沈黙が孕む夢、生と死のあわいを越える夢もさらさらと流れている。死んだ友、生きながら死ぬことを知った友二人とともに、作家は沈黙の野川を行きつ戻りつする。夢と寝覚めと反復の日常を行きつ戻りつする。

「遠くへ聞き耳を立てると、遠くからもこちらへ、聞き耳を立てられれているような気がするものだ」
という声を作家は聴く。

「最後のわたしとは言葉のことか。言葉となりわずかに留まって、わたし自身のことを語りながら消えていくのか」と作家は言う。

「誰でもそれぞれの死後を生きている」。その死後はいつからはじまるのだろうか。

「自分が殺したように思っている人間を、幾度でも殺しに行くものです、つぐないみたいに」。
と作家の受け取りそこねた沈黙のなかの声が言う。


今日もまだ、私の左耳の底には砂嵐が吹いている。