作家キム・ヨンスと詩人白石と詩人金時鐘と詩人キム・ソヨン

キム・ヨンス『七年の最後』(橋本智保訳 新泉社)を読んだ。

 

これは、北朝鮮の体制の中で、ついに、詩を書かないことで自身の文学を全うした詩人白石の、詩を書かなくなる最後の7年を描く物語であり、キム・ヨンス自身の文学観が語られている物語でもある。

 

「生き方そのものが詩となる、生きている詩がある。書かれない詩もある」

朝鮮総連に詩を禁じられ、10年間の沈黙を強いられた金時鐘の、この言葉を強烈に思い起こす。

 

印象深い言葉は数多くある。同じく詩を封じられた、尚虚 李泰俊が、キサン(白石:ペクソク)に最後の贈り物のようにして語った言葉も、胸に深く刻まれている。

彼(尚虚)は水の中を歩くように、月明かりの中を歩いた。月の光はなぜもこうも明るいのだろうと。誰も見てくれやしないのに、なぜもこう美しいのだろうと。

「そのとき僕は、誰も住んでいない世界を想像したね。まずは砂漠や海、北極や南極みたいに実際に人間が住んでいないところを、(中略)それからソウルや平壌のような都市に人ひとりいない光景を思い浮かべた。そしたら急に怖くなってね。そこでも満月になったら、世界は月の光で溢れるんだよな? そこに人がいようがいまいが、月は満ちたり欠けたりして自然の法則を繰り返す。自然がそんな薄情なものだとも知らずに、人間たちは心寄せる。まるで太陽と月が自分の人生を救ってくれるかのように。おお、我が太陽よ、永遠なる月よ、とか言って褒めたたえる。でも太陽と月は、誰の人生も救ってくれやしない。僕たちもそんな自然を見倣って、歌は聞こえるままに聞けばいいし、踊りは見えるままに見ればいいんだよ。いいとか悪いとか、好きになったり嫌いになったりする必要はなかったんだ」

 

中略

 

無表情でいられること、詩をかかないでいられること、何も話さないでいられること。人に与えられた最も高次元的な能力は、何もしないでいられる力だった。

 

中略

 

一九五八年、平壌の人々にまったく自由がなかったというのは、こういう脈絡からだった。彼らは言われたとおりに聞いたり見たりしなければならなかった。また、言われたとおりに話さねばならなかった。

 

 

それがどんなに素晴らしいことでも、そこが地上の楽園であっても、

それがたった一人の権力者の想像力から生まれ出て、現実はそのただ一つ、正解もただ一つしかないのであれば、それはとてつもなく貧しい世界なのだということを、文学は知っている、詩は知っている、だから、自己肥大した貧しき想像力は詩を殺しにかかる、文学を消しにかかる。

 

 

首領が、文学における古い思想の残滓に抗う闘争をせよと教示すると、全国の図書館と図書室はもとより、個人が所蔵していた反党反革命作家の本も回収され、見せしめのように至るところで燃やされた。そこで燃やされる一冊一冊は、それぞれが一つの世界だった。(中略) 

世界は一つではなくいくつもあり、現実はその数限りない世界が結合したところだ。(中略)

だから、単に一冊の本が燃えてしまうのではない。詩人がひとりいなくなるだけではない。現実全体が没落するのだ。(中略)

言語と文字は、言語と文字のものだ。他の誰のものでもない。

 

貧しい想像力、没落した現実の中に閉じ込められたとき、

詩を書かないことが、唯一、詩を書くことになる、

生き方としての詩を選ぶ者たちが、言葉と詩と文学を守ってゆくということ。

 

 

物語の中のキヘン(白石)は、追放の地で、ついに、自身がかつて書いた詩を、禁じられた詩を、ノートにふたたび書き記しては、ノートを破り、燃やしはじめる。

 

幸いにも夜は長かったので、書こうと思えばいくらでも書けた。望むなら、生涯書いてきた詩をすべてノートに書き写すこともできた。そうやって一篇の詩を書き、読み、紙を破って暖炉に入れ、その炎を眺め、と繰り返しているうちに、彼はいつしかノートに「館坪の羊」と書いていた。やはり左側に文字が思い浮かんだ。一瞬迷ったが、見えるがままにその文字を書き記した。書き終わると満ち足りた気持ちになった。彼はまた、紙を破って暖炉に入れた。初めて書いたその詩も他の詩と同様に勢いよく萌え、そしてすぐに消えてしまった。

 

こうしてキヘン(白石)は、一個の詩になった。

 

 

思い起こす言葉がある。

シンボルスカが語った詩の四つの可能性の4番目。

「書かれることもなく、姿を消すこと。満ち足りた口調で、自分に向かってなにかをつぶやきながら」(キム・ソヨン『奥歯を噛みしめる 詩がうまれるとき』中の「儚い喜び」より引用)

 

そして、さらに、シンボルスカを語る詩人キム・ソヨンは、詩人であることについてこう語る。

「遠くない未来に、わたしがもし、詩人として生きてはいかないと決めたなら、きっとあまりに沢山の秘密を守ったのか、あまりに沢山の秘密を洩らしたのにちがいない。すでに書いた詩は。自身が読みたい詩ではないのだ。これからわたしが書かないといけない言葉は、わたしが書いてはいけない言葉しか残っていないのだ。」(『奥歯を噛みしめる』P162)

 

 

詩という生き物を知る者たちの、それどころか、自身が詩という生き物である者たちの言葉たちが、さきわう世でありますように。