政治哲学の問題は、なぜ、そしてどのようにして人々が何かをさせられるのか、ではない。
なぜ、そしてどのようにして人々が進んで何かをしようとするのか、である。
人々は自ら進んで搾取や侮辱や奴隷状態に耐え、単に他人のためならず、自分たち自身のためにも、これらのものを欲する。政治哲学は、それを問わねばならない。この地点に到達しない限り、政治哲学は、抑圧するものと抑圧されるもの、支配するものと支配されるものという図式を決して抜け出すことができないだろう。
下から、「低い所」から来る実におぞましい権力なるものをつかむことができないだろう。
なぜ人は自由になることができないのか?
なぜ人は自由になろうとしないのか?
どうすれば自由を求めることができるようになるのか?
それこそが<政治的ドゥルーズ>が発する問いなのだ。
※それを考えるには、支配ー被支配、抑圧ー被抑圧、国家ー国家に抗する社会というふうに、スタティックな二項対立を前提としている限りは、脱出口はない。
※それを考えるには、あらゆる場面に応用可能な抽象的モデルでは役に立たない。
「ドゥルーズ=ガタリは、まさに精神分析家が患者一般ではなく個々の患者に向かうように、一つ一つの具体的な権力装置、それを作動させるダイヤグラム、そして何よりもまず、その前提にある欲望のアレンジメントを分析することを提唱する。
そこから、自由に向けての問いが開かれる。その問いは、常に具体的な個々の状況において問われる。
◆権力の発生の起源にある欲望のアレンジメントを見失わないこと
◆支配/被支配の図式にとらわれて、「欲望が自分自身の抑制を欲望する」ということを忘れないこと
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<研究ノート>から
ピエール・クラストル
原始社会とは、戦争によって国家に抵抗する徒党集団である。
「戦争は国家に反対する、そして国家を不能にする」
しかし、「旧石器時代や原始社会に「国家なき社会」を見るのは、近代に絶望する研究者たちの夢の投影でしかない」(ドゥルーズのクラストル評価)
◆原始社会/徒党集団 → 戦争機械 (ドゥルーズ=ガタリによる抽象化)
(=国家と異質なロジックで動く、無形の雑多な力の集合、リゾームの集団)
◆国家/捕獲装置
(各原始社会の間に帝国として存在して富を捕獲するツリー(樹木)状の組織)
「原始共同体の自給自足、自律性、独立、先在性などは民族学者の夢でしかない。原始共同体が必然的に国家に依存するというのではなく、それは複雑なネットワークの中で国家と共存しているのだ。どうやら本当らしいのは、「最初から」各原始社会が、近隣だけでなく、遠方とも互いに関係し合っていて、国家による捕獲は局所的かつ部分的なものでしかなかったとはいえ、やはりそうした原始社会間の関係は国家を経由していたことである」(『ミル・プラトー』より)
※たとえば、貨幣とは、国家という捕獲装置が税徴収の共通尺度として作り出すものである。(交換のために作られたのではなく……)