デヴィッド・グレーバー『資本主義後の世界のために  新しいアナーキズムの視座』  メモ

思うに、アナーキズムを語ることは、わたしたちの「暮らし」「社会/共同体」「生」をめぐる想像力が、なにものによって形作られ、あるいは囲い込まれているのか、ということを語ることでもある。

 

資本主義の外に、国家の外に、想像力がはみ出していかないように、

その外などないかのように想像力を封じ込めるために、

あらゆる手段が講じられているのが、資本主義/国家なのだということ。

 

この「想像の共同体」からの逃走はいかにして為されるのか?。

 

未開から文明への発展の結果として、国家が出現したのではないということ。

ピエール・クラストル『国家に抗する社会』にあるように。

現在の私たちの想像力は、「政治的なるもの」を「国家」と「暴力」の領域とするが、クラストルが見出したのは、アマゾン社会において政治的領域とは、「国家」と「暴力」の可能性の否定のためにあるということ。

そして、「われわれが無垢で原始的と考えているこれらの社会は、実は文明化された社会からの亡命者や反逆者たち」なのだということ。「高貴なる野蛮人」ではないのだということ。

 

想像力を閉じ込める「国家」「文明」「暴力」からの脱出の一つの形、十分にありうる可能性としての「国家に抗する社会」を想い描くこと。

 

「国家」という名の「ユートピア的妄想」と「急襲的略奪機構」。そこから、いかに逃れ出るか?

 

いかに、ひそかに、異なる想像力が蠢く「場」を開くか、そして、ひそかなまま、いかにつながりあうか、ということ。

 

 

序文(高祖岩三郎) より

 

グレーバーいわく「資本主義は、現に存在している共産主義を、管理/統制しているだけである」。少し視点を変えて言い替えるならば、われわれの世界を土台的に形成しているのは(中略)血みどろの抗争、対立、矛盾ではなく、そのような次元さえも、暗黙のうちに下から支えている、幅広い「コモン(=共通なるもの)」の領域である。

 

この「コモン」は、つねにすでに存在する「共同作業」の領域としての、つねに存在していた「人間的条件」としての「コモン」。

これは、アルフォンソ・リンギスが『何も共有していない者たちの共同体』で語っていたことと響き合うようでもある。

 

アナーキズムの人間、あるいは闘う民衆は、支配者(国家/資本)に対して、あくまで非対称的存在である。

 

それは主人になりたいがなれない怨恨(ルサンチマン)にまみれた、「主人」の否定的な分身としての「奴隷」ではない。むしろそれはその本性において、「寄生者」としての支配者に対する、「宿主」あるいは「母体」なのである。だからその階級闘争は、決して「東軍(対)西軍」というような二項対立の形態をとらない。それはむしろ「抱擁」と「溶解」を土台にした、より複雑な、あるいは豊かな戦術をとるだろう。

 これこそが、今日われわれが直面している地球的な闘争の現実である。かくして今こそ「共に組織する時」であり、われわれは「共に考える場所」にいる。

 

 

 

 [考えるべきこと]

 

●状況をいかに喜劇に、祝祭に、変換するか。

 

●行動する前に完璧に現実を定義する必要などない。

(この複雑きわまりない流動的な現実を完璧に定義することなどいったい誰ができようか?)

●訳通不能な思考の共棲  

(これは「声」の領域では日常的に行われていることではないか。「語り」の場では意識することもなく行われてきたことではないか。たとえば石牟礼文学とは、このような共棲の所産ではなかったか。これは詩の領分のことでもあるのではないか)

 

●「市民的不服従」と「直接民主主義的組織化」

●「最も疎外されていない人びと」であり「最も抑圧されている人びと」の大きな可能性。

換言すれば、「オルタナティブな社会像を容易に想像できる人びと」と「最も熱心にオルタナティブな社会を見たい人びと」による革命的な連帯の可能性。

  具体的には、「一定の自律的労働を知っているか、記憶している人びと(=非疎外的生産の経験と記憶のある人々)」であり、「最も抑圧されている人びと」でもある者たち。サバティスタ、チアバスの土着民、ブラジルの土地なき農民のグループ、

(サバティスタ曰く)「われわれは軍隊でなくなることを目指す軍隊である」

 

※ たとえば水俣。漁民たちの非疎外の記憶、それはある種、不知火海という神話的世界として石牟礼道子は描き出すが、(そのように読み手の多くは読み取るが)、それを神話的世界と受け止める近代国家の想像力を突き抜けて、それこそが「もうひとつの世」へと向かうきわめて実践的なはじまりの「場」なのだということに気づくこと。

神話的世界を取り戻す、ということではなく、そこからはじまるのだということ。

 

加害と被害の記憶にとどまらず、被害の最たるものとしての、破壊された「非疎外的生産の暮らし」の記憶をしっかりととどめること、伝えていくこと、受け取っていくこと。その伝承のあり方を考えること。詩、語り、文学、芸術、さまざまな形で。

 

●人権論はアナーキストの役には立たない。それは国家の存在を前提としているから。

人権を主張する思考は、国家を超越する何かに訴えかけるが、それは結局意味を成さない。

例えばハンナ・アレントは、難民というものは、人間の原理的存在形式であると言いました。なぜなら、彼らは人間性というもの以外のすべてを剥奪されているからです。彼らはもはやどの国家の市民でもなく、一定の共同体に属すことから得られる権利はありません。彼らが持つ権利とは、単に人間であることの「刻印(dint)」のみなのです。とはいえ、難民についてさえ、何らかの形で国家が介入していなければ「権利」について問題にすることは不可能です。(p115)

 

 

●貨幣はどうして使われるようになったのか、市場はなぜ作られたのか。

 もっとも効率的な富の収奪のために。具体的な物の収奪ではなく、統一の通貨をもって、市場を交換の場として、万物を手に入れることが可能にするシステムとして。

 

●国家とは制度化された略奪機構である。

●一体どのような根拠で、国家は税金を要求しうるのか? 何の権利において?

 

アナーキスト運動は、たとえば紀元前200年~300年の中国戦国時代にもあった。

 「農家」という学派。実践によって人びとを階層序列のある共同体から遠ざける方法論を駆使。(実験的感染主義)

 

●政治とは、「現実とは何かを主張することで、現実を創造しうる領域」である。

 王というのは、単にみなが王だと思う人、それが王を政治制度とする。このいかがわしさを忘れぬこと。新しい社会的現実の創造には、ある種の詐欺がある。

 新しい社会形態や制度を創造するためには聖なるものが必要である。

つまりわれわれが別の世界を創造するための梃あるいは蝶番が必要なのです。しかし聖なるものの力と神秘は、同時に危険なものでもあります。あらゆる虐待的な階層秩序もまた、最終的に力と神秘に訴えるものです。それを武装解除するために、われわれは冗談を真面目に実践せねばなりません。アナーキストはそのような衝動に満ちています。(p151)

 

 

●すべての社会はある基底的な共産主義、つまりクロポトキンが「相互扶助」と呼んだものの上に築かれている。 

究極的に資本主義、国家、あらゆる制度は、この共産主義とそれが可能にする無限の創造性を孕んだ形式に寄生しています。(p153)

 

anarchismという言葉は、プルードンがつくったものですが、すでに言ったようにそうみなせる運動形態は、すでに中国の戦国時代にありました。(p173)

 

アナーキズムを三つの次元の現象の複合と考えることができます。

第一に平等主義的な実践の諸形式の存在――反階層序列的な決定、協業(等々)の機構、

第二に、第一によって可能となる権力や権威の構造への挑戦――これが人びとに権威の形式は必要ないことを実感させます。人びとが資本主義を不正義と考えるのは、彼らがすでに日常生活の中で、共産主義を経験しているからなのです。

そして最後に、ユートピア的理想という次元。平等主義的社会実践の経験は、われわれに強要されたどのような権威の形式も間違っていることを実感させます。だからわれわれはそれが存在しない世界を想像するわけです。

 

 

人類史を通してアナーキスト的社会運動、革命運動はつねに存在してきたのです。一九世紀になってある一定の人びとが、それに名前を付けたというだけのことです。プルードンを読んでも、バクーニンを読んでも、その他を読んでも、彼らがやったことはそれだけです。(p174)