『分解者たち  見沼田んぼのほとりを生きる』(猪瀬浩平 生活書院)  メモその3

水俣に行く前に、じっくり読みたいと思っていた『分解者』を読了。

 

近代合理主義と植民地主義と今となってはグローバル資本主義がもたらす徹底的な「分断」を、いかに「分解」するか?

 

生産者/労働者/消費者でしか存在しえない存在となった人間が、分解者であることをいかにとりもどすか?

 

猪瀬浩平が引用する「植民地下の人間」をめぐる金抗の文章は、印象深い。

植民地は、それゆえ、セキュリティの原始的な場、すなわち個人がただ生きるのみの動物になると同時に、その動物を排除することによって国家の民になれる場における、国家の民と動物が分割されるはざまの深淵そのものだと言える。

 

都市のはずれ、「動物」が吹き寄せられてくるところ、それがたとえば猪瀬浩平の思考と実践の「場」である「見沼田んぼ」だ。

そこには、障害者も朝鮮人もゴミも遺体も流れ着く。

 

人口減少と不平等の拡大の時代に、更なる経済成長という未来にすがって、<東京>が開発の欲望を果てしなく膨張させていく。そんななかで、東京の<果て>にある見沼田んぼに流れ着いたものたちを/と分解しながら、この時代を共に生き抜くための拠り所にしていく。もはや人間を主語として見沼を語る時代は終わったのかもしれない。私たちが見沼を守るのではなく、見沼が私たちを守るという認識を、もう一度取り戻す。

 

分断された私たちが新たに結ばれなおすための「場」を持つ、と私たちは常套句のように言う。その「場」は地に足がついているのか、(これは文字どおり「土」があるのか、ということでもある)、その場に集まる者たちは発酵しているのか、匂いを放っているのか、そこは何かに働きかけられて変態するものであったり、何かに働きかける菌であったりするものたちの「場」なのか、ということをあらためて思う。

 

山を知らず、海を知らず、都市でのみ近代を語り、国家を語り、人間を語り、人間以外のものを語らぬ者たちが形作る分断の世界とは異なる、分解の世界へと向かう<土壌>を想う。

 

明日、水俣へ向けて出発。めざすはまずは山の水俣