秋田 大館市花岡に行ってきた。中国人虐殺の記憶をたどって。

青森十和田から奥入瀬渓流沿いの道を走って、大館へ。

 

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山腹に「大」の字。

大館の大文字は昭和に始まったもので、歴史は新しい。

 

 

 

太平洋戦争中の1944年、

軍需物資である銅増産のため、藤田組の花岡鉱山のインフラ整備(鉱滓堆積場整備工事/堤防建設・排水暗渠工事、山腹水路工事)を鹿島組が請け負った。

 

鹿島組は、厚生省に華人労務者斡旋申請書」を提出し、

1944年8月(294名)、1945年5月(589名)、6月(98名)の中国人が花岡に連行されてきた。

 

この中国人たちは、戦争捕虜、もしくは拉致されてきた農民。

洛陽・西工収容所、石家庄・石門俘虜収容所、北京・西苑収容所、済南・新華院、青島収容所等から、日本へと送られた。

 

送りだしたのは華北労工協会」

華北の労働力を華北満洲に調整配分すること、賃金の統制、俘虜の輸送手配など、華北の労働を一元的に統制する機関であり、興亜院華北連絡部(日本内閣直属機関)の指導下にあった。

 

この華北労工協会が、日本への中国人強制連行の89パーセントを担ったという。

 

1942年1月1日をもって華北の中国人俘虜(戦争俘虜および拉致した農民など)を一人当たり35円で売ることに決定したと、

華北労工協会は「満洲」の日本企業に通知していたともいう。

 

まさに奴隷売買。

 

そして、内務省が花岡鉱業所の中国人の扱いついて出した指示は、

「濡れたタオルの水が一滴もなくなる迄もしぼる方針を取れ」

 

①粗末な穴倉式仮小屋が華労の性格に適する。

華人労働者は露店生活する者が多いから、4枚も布団を支給するのは多すぎる

華人は麦粉が主食で、より下級な食料を摂っているから、麦粉22キロ(中国人労働者総数/1日)の支給は贅沢すぎる。

 

このような状況の中で、殺されるくらいなら立ち上がろうと、

1945年6月30日に中国人労働者が決起し、逃亡を図った。

しかし、逃げきれずに捕まった中国人たちは、縛られたまま三日三晩炎天下の中を、花岡の芝居小屋共楽館の前に置かれ、拷問され、そして、7月7日、13人の中国人が秋田刑務所に収容される。

 

一方、

鹿島組関係者が、戦犯容疑で米軍により秋田刑務所に収容されたのは、

敗戦後の10月15日以降のこと。

 

 

花岡に連行されてきた中国人986名。

花岡で殺された中国人は419名。

 

 

 

花岡平和祈念館

この日(2024年3月31日)は、みぞれ混じりの雨模様。寒い。

 

 

亡くなった方々の名札。

 

 

 

花岡鉱業所 共楽館前に縛られて放り出された中国人
共楽館内での拷問の光景

 

1949年11月1日、鹿島建設が、信正寺裏の畑の地下に納骨堂設置。

その上に追悼供養塔建立。

 

1950年7月1日 山本常松花岡町長が個人の資格で施主となり、供養塔前で慰霊。

ここで大事なのは――、

◆花岡鉱業所で働いていた朝鮮人たちが、1949年の夏と秋に中国人の遺骨調査をしていたこと。

◆1949年10月1日に中華人民共和国が成立していたこと。

◆中国人労働者の慰霊が、親共産主義的な行為とされる空気が醸成されつつあったこと。

 

そのなかで、町長が個人の資格で始めた慰霊祭は、花岡町による慰霊祭として続けられ、現在では大館市主催の慰霊祭となっている。

町村合併の際も、花岡町側からは行政による慰霊祭の継続が条件として付けられていたのだった。

 

 

信正寺

この寺の住職が、町長と親しかったという。

 

 

信正寺裏 慰霊塔(鹿島建設建立) 新しいものと古いものと

 

 

信正寺住職による、供養塔保存改修の記

これを読む限り、当時の住職が中国人犠牲者の供養に心を砕き、鹿島建設にこれを建立させたことがうかがえる。