生駒山 宝徳寺 生駒トンネル崩落事故(1913年1月26日) 犠牲者追善の奉納を覗いてきた。 

生駒 宝徳寺.
 
今日(2020年1月26日)の午前中は1913年の旧生駒トンネル崩落事故の犠牲者追善の奉納に参加。

     

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    <慰霊碑の下には崩落事故直後に工夫たちが作ったという石仏二体。

 

 

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<向かって左から2人目 宝徳寺住職 姜栄熹師  3人目が西教寺住職 藤本信隆師>

この事故で約20名が死亡、4名の朝鮮人労働者も亡くなっている。

日本近代の基礎造りは、朝鮮人労働者なくしては語りえない。

「枕木一本に朝鮮人ひとり」と言われた時代だ。

生駒トンネルの工事は大林組が請け負っていたのだが、
大林組はそもそも日露戦争を契機に朝鮮での鉄道建設に参入、京釜鉄道や臨時軍用鉄道の工事に関わり、この時期より朝鮮人労働者を使うようになったという。

(もちろん、鉄道やダム、運河の工事を請け負ったのは大林組だけでなく、日本のいわゆるゼネコン各社が請け負っているわけで、裏を返せば、植民地での工事の受注をとおして建設業界は大いに成長すると同時に、現場で朝鮮人労働者を束ねる朝鮮人の親方たちとの関係も作っていったのだろう。全ては人間と人間の結びつきが物事を動かしていくゆえに)。

 

生駒トンネルでは、この大事故の前後にも小さな事故はしばしばあったという。
トンネル工事には、炭鉱のように、女性や子供も労働者として入っていたともいう。(西教寺 藤本信隆ご住職の話)

生駒トンネル崩落事故が起きたとき、救い出された百余名の工夫たちが一斉に泥まみれのまま、狂気の如くに、生駒山を駆けのぼり、生駒聖天に参詣、額づいて九死に一生を得たことを感謝したという。
工夫たちの間にはそもそも聖なる山である生駒山を切り崩すことへの抵抗があり、無難息災を願って生駒聖天のお守りを身に着けていたという。トンネル崩落事故も生駒山を冒した祟りではないかと工夫たちは怯えていた。

 

★宝徳寺境内には、生駒トンネル建設工事当時は、石切作業場があった。(宝徳寺建立は1959年)

 

近鉄生駒駅にほど近い西教寺には「隧道工事中過去芳名録」があり、工事中に死亡した工事関係者53名の氏名、死因、滞在飯場が記されている。

 

★生駒聖天 寶山寺

 ここも、かつては修験の根拠地。

http:// https://www.hozanji.com/index.html

 

生駒山一帯は修験の活動の跡がそこかしこにある。

 日本の近代化の過程で修験が廃滅されていったその地に、朝鮮の庶民の間で修験と同じよう役割を果してきた巫者たちの拠り所となる朝鮮寺が生まれたということ。

 朝鮮の巫者たちが、すがる者のない在日の貧しき者たちのための祈りの場を開いていったこと。

 それを記憶にとどめておく。

 宝徳寺も朝鮮寺。ここでは、巫者たちが굿(祭祀)をすることもあったという。