高秉權(コ・ビョングォン)『黙々  聞かれなかった声とともに歩く哲学』(明石書店) メモ

高秉權。この韓国の哲学者が書くものは、とても好き。


哲学・思想がこの人の体をくぐり抜けると、社会を底から変えてゆく実践と結びついてゆく。
小さな声を封じることで成り立つ近代社会を支える人文学ではなく、変革の人文学が見えてくる。

     

『黙々」は、1993年に設立された障害者夜間学校 ノドゥル夜学の話から始まる。
ノンステップバスなどない。街はバリアだらけ。どこもかしこも介助をお願いしなくては移動ができない。学生たちが夜学に来るには大変な労力と時間が必要だった時代。

 

1999年に一人の学生が地下鉄の車イスリフトから転落する事故が起きる。これをきっかけにノドゥル夜学は移動権の保障を求めて闘争に入る。バスの行く手を塞ぎ、線路に体を縛り付けて。

 

社会そのものを障碍者の方へと移動させる。
社会全体を新しく学ばせる。

「学生になるためにはまず闘士にならなければならない。」
おのずと打ち立てられたノドゥル夜学の精神。

高秉權は、このノドゥル夜学で、一見すぐには何の役にも立たなそうな人文学の講座を持つ。
(そもそも{~のために}という発想が人文学を閉じたものにしてきた)

哲学者 高秉權は言う。
「生を諦めるのか、生きぬくのか。わたしは人文学の勉強の領域はここにあると考える。どのようにであれ生きぬかなければならない。それも「よく」生きぬかなければならないという自覚。生に対するそのような態度、そして姿勢のようなもののことだ」

この言葉とともに、高秉權はメキシコのチアバスの先住民女性の言葉を引く。
(これはノドゥル夜学のHPに掲げられていることばだそうだ)

そして、これもチアバスの実践から生まれた深遠な言葉。
   

「もしあなたがわたしたちを助けにここに来られたのであれば、あなたは時間を浪費しているのです。しかしもしあなたがここに来た理由が、あなたの解放が私の解放と緊密に結びつくからであるならば、ともに働いてみましょう。」

(チアバスの先住民の言葉)