雨や大風(二上り)



雨や大風吹くのに 
からかさがさせますかいな
雨や大風吹くのにからかさがさせますかいな
はい
骨がおれまする


雨の中、三味線抱えてお稽古に行ってまいりました。
はい、まったく骨が折れまする。
お稽古に行けば、二時間みっちり三味線を弾きっぱなし。わたしも必死、お師匠さんも必死でございまする。なにしろ、お師匠さんとしては、小唄の芸を次代につなげるために、唄だけでなく、三味線をきちんと弾けるよう仕込まねばならぬのですから。


旦那衆に趣味の小唄を教えるばかりで、三味線を教えなかった熊本のある小唄の流派は、ついに途絶えてしまったとか。だから、「若い(と言ったって四十代なんですけどね)あなたたちには三味線をきっちり仕込まねば」と、お稽古が終わればいつもどっさりおやつを持たせてくれる優しいお師匠さんも、お稽古中はオニです。


次々新しい「手」が出てくるわよー、と、脅える弟子を前にしてお師匠さんは楽しげにお稽古をつけてくれるのですが、今日も2時間のお稽古でジェットコースターのような勢いで、「打水」「夜桜」「松のみどり」「今朝の別れ」とおさらいして、さらにはシャラリシャラリシャンという弾むリズムの「佃」というテクニック満載の「深川」にまで新たに進んで、1年経っても小唄初心者のわたしは、お師匠さんの三味線をおっかけていくのが精一杯。むーーーーー、と黙り込んで、というか、息をすることすらできずに窒息寸前の三味線爪弾き。


小唄は歌わねば小唄にはなりませぬから、当然、「ほら、唄もきちんと歌わんといかんよ」とお師匠さんにしかられる。「だんまりで三味線弾いて、何が小唄か」と言われれば、ああ、いっそ、おしであったらよろしゅうございましたと、思わず口走って、なんたる情けない言葉よ、失礼な言葉よと、瞬時に反省。


本来、小唄は歌い手と弾き手は別です。でも、お稽古のときには、弾き歌いをやっています。三味線を千回弾いて体に「音」と「間」をたたっこんでこそ、唄を千回唄って唄い込んで骨身に染みこませてこそ、本物の小唄歌い、小唄三味線弾きになれる。なんて恐ろしい言葉をうっかり聞いてしまったものですから、家で十回くらいちょろちょろと弾いて歌ってお師匠さんとこに行く私には、毎回のお稽古が恐ろしさに打ち震える鳥肌モノです。


小唄は唄が主。とはいえ、唄い手を乗せて引き立てる三味線なしには成り立たない。唄と三味の調べは微妙に間がずれているような合っているような、心憎いばかりのコール&レスポンスを繰り広げながら、最後にはピタリと合って唄を締める。「間」と「間」のやりとり。これが小唄の命なんです。いまどきのわかりやすい音楽や文学や世間の会話にはなかなか見当たらない対話の妙、粋な関係。これがわたしにとっての小唄の魅力であって、同時に、小唄のとてつもない難しさなんですね。


うわっつらの言葉に振り回されない、「間」と「間」で語り合える関係に、わたし、ひどく憧れます。


お互いの声や息遣いやしぐさの、その「間」に入り込める関係、「間」から生まれる粋も艶もあれば色もある、秘すれば花の「花」の色香がほのかに、でもじわじわと効いてくる、ああ、「間」の深みにはまって溺れてしまいたいなんて、わたし、恥ずかしながら妄想してます。


一応、小唄にも譜面はあって、お稽古は譜面を見てやるのですが、譜面どおりに弾いてちゃ、「間」が消える。小唄にならない。しかも、わたしときたら、いまだ譜面どおりにすら弾けない段階にあるわけだから、「間」どころか、「乱調」「混沌」「雑音」「騒音」。


はあ、雨や大風吹くのに、からかさがさせますかいな、てなもんで、唄も三味もぼろぼろよれよれなのに、どうして妄想を現実のものにすることができましょうか。


「雨や大風」は本来コミカルスピーディのりのりに歌い、弾くおどけた味わいの小唄です。この唄を口ずさむたびに(スピーディ、つまり早間の歌は素人さんにも歌いやすい)、わたしは小唄の道の厳しさをつくづくと想うのでございます。