取り返しのつかないこと

自由が丘を歩く。
何度行っても自由が丘は地図が頭に入らず道に迷う。より正確には、行きたい店にたどり着けない。つまり、自由が丘自体が迷宮というわけではなく、ピンポイントで頭の中の地図から消えてしまっていて、一度行ったことがあって、もう一度行きたいのに、どうしても探し出せない店が数軒ある。そのうち一軒にようやく辿りつけたのだが、いつも歩いている通りの、実にわかりやすいところにその店は存在していて、なぜ今まで見つけられなかったのかが大きな謎。一番有力なのはパラレルワールド説。店を見つけられない時、たぶん私は「自由が丘」ではなく、「自由ヶ丘」を歩いている。頭の中に地名は正確に刻み置くべし。


エデンの園の記述を確認したくて、「創世記」を読み、さらに旧約・新約をパラパラと眺める。
しかし神さまも大変である。天地創造して「いい仕事をした」とわれながら大満足の心持でいられたのは、ほんの束の間で、あとは「創造」というとんでもない不始末を悔い、やってもやってもどうにもならない事態の収拾に追われているばかり。

ヤハウェは地上に人をお造りになったことを悔い、心に深く悲しまれた。

というのはノアの洪水を起こして、いろいろ水に流してしまおうと神さまが思ったときのこと。勿論洪水を起こしたところで水には流せなかった。
私はなにかと「取り返しのつかないことを仕出かした」感に付きまとわれがちの性質なのだが、あらためて聖書を読んで、聖書とは「どうしようもなく取り返しのつかないこと」を仕出かした神さまがじたばたしつづけている物語であるのだということに気づいて、まことに勇気づけられた。

このようなことを考えているときは、仕事は素晴らしく捗っていない。