戦前に、朝鮮窒素の興南工場に電気を送るために、昭和2年より、現在の北朝鮮の山岳地帯に赴戦江水力発電所の建設工事が始まった。

ダム建設は、赴戦江、長津江、水豊と続く。
それは朝鮮窒素という一民間企業を中心とした電力開発事業でありながら、
アメリカの国家事業TVAに匹敵した。


どれだけ新興財閥窒素が植民地朝鮮で権力と結びついて横暴であったか、
どれだけ人間がモノのように扱われたか、

『聞書水俣民衆史』をひもとけば、いやになるほど、次から次へと、植民地支配の実情が語られる。

たとえば、


●水豊発電所萱島秀信伸の証言(明治32年生)

興南工場は、日本の肥料の半分を作ってた。発電量によって興南工場の肥料の生産計画が決まるでしょう。それによって肥料の値段が上がったり下がったりする。肥料の値段で米の値段が左右される。僕は米の相場をやったら誰にも負けなかったと思う。


(水豊発電所建設のために水没したのは幅1〜2キロメートル、長さ170キロメートル、移住させたのが7万人。)
戦後日本ではね、日本発送電の技師長が、二〇軒以上水没にかかると補償問題がやかましいので、水力発電所はできんと決めとったんだ。片や二〇軒、片や七万人だよ。


(水豊ダムは)使った人夫が毎日三万人。朝鮮人半分、満人半分。(中略)鴨緑江の雪解けの水は、利根川の洪水の量より多いんですよ。雪解けになると、発電所の水路の溜まりに流れて来る水死体が毎年七、八〇体じゃきかん。死体は引き上げんのだ。巡査が来てみな本流に流してしまう。朝鮮側も満州側も水死体上げたら調書取らにゃいかんし、厄介だからね。



●赴戦江 工事監督の日本人人夫 平上嘉市(明治40年生)の証言

〈集団凍死していく支那人クーリー〉

私が一番びっくりしたのは、支那人クーリーの扱いです。工事ができる期間だけの完全な季節人夫でしょう。(中略)三月から四月にかけて、いっぺんに500人、1000人て連れて来て、ここに居れ、て火の気もない野っ原に放っぽらかすんです。支那人飯場なんて絶対あるもんですか。(中略) まだ零下二〇度、二五度の気温で、寒波がパッと来りゃ零下三〇度を越す。 (中略) 日本人の合宿はペーチカが真ん中に坐っていました。野っ原の支那人は、抱き合うて坐って、少しでも人間の輪の中に入ろうとするけど、外側になった者は凍死していく。朝になると木頭(=支那人の人夫頭)が来て、ずっと見て回ってこれもだめじゃ、これもだめじゃ、て死体を一キロか二キロ川下に運ばせて、どんどん捨ててしまう。そして生きている者だけ働かせる。人間を扱うんじゃなくて豚かなんか扱うようにですね。 (中略) 寒波が来る度に、そうして死んだのが、ひとかたまり百人ぐらい居たでしょうね。私はこの目で見たんですから。


<警察官以上>

朝鮮水電の日本人社員ていえば、警察官以上の権力を持っとったです。警察官はわれわれの介添え役だった。


<幽霊写真>

水路の隧道でうまくいかんもんだから、人身御供を流したという話はありました。最初女の子を流したけど効き目がなかった。それでまた男の子を流したて。

(妻・フミ 明治41年生)
隧道のでき上がり記念写真を、七、八人で撮ったところが、その後ろにまたボヤーッと七、八人写っとったという話もあったですよ。