記憶

取材テープ起こしと翻訳の合間の気分転換に、再び横浜・黄金町シネマ・ジャックに映画を観に行く。原一男監督『ゆきゆきて、神軍』。二十数年前の公開時に一度観ている。しかし、今回あらためて観てみれば、見事なほどに内容を忘れている。初めて観るような、それにしてもどこかデジャビュのような、妙な感覚。秘密の告白を迫られる男の手をクローズアップして、その手の力がすーっと抜けていくさまを画面いっぱいに映し出して、それが告白の場面へとつながっていくという終盤の盛り上がりのシーンは覚えていた。二十数年前に観た時に、ああ、これが人間の心の動きを写し撮るということなのかと浅はかにも感じ入ったのを覚えている。いまあらためて観れば、この小細工はあざといよ、原さん。(というか、全編通じて見事にあざといんだけど……)。

神は記憶を支配する。記憶を開くも閉じるも裁くも切り刻むもつなぐも、それはどうやら神だけに許される御業らしいと、この映画を観るうちにうすうす尊大な作り手の言わんとするところが見えてくるような気がしなくもない。この映画の中では天皇裕仁奥崎謙三も、その意味において神であり、しかもかなり虚しく空ろな神である。

ゆきゆきて、神軍」を、今あらためて見直す意味なんてあるのかしらと半信半疑、でも観なくてはいけないような気がして出かけたシネマ・ジャックで、映画を観終わった後につくづく思った。神の視線ではなく、あくまで人間の視線で、記憶に向き合おう。神に裁かれる側の者として記憶に向き合おう。そのことをあらためて自分の課題として考えよう。切実にそう思う。