森崎和江 『慶州は母の呼び声』 メモ

これは、森崎さんにとっての『あやとりの記』なのであり、『苦海浄土』なのだと思った。


失われた「はは(オモニ)のくに」の記録。痛切。哀切。

 

◆唄の記憶、ひとつ。

先に行くのはどろぼうだよ
その次はヤンバンサラム
あとから行くのはシャンヌム

いつごろ生まれた唄か。シャンヌムとは一般の農民のこと。ヤンバンサラムの家の小作をする人もすくなくない。先に行くどろぼうのイメージは、イルボンサラムだったろうと、帰国したのちに思った。朝鮮米ひとつをみても、それは内地へ移出され、買い占められて相場米となっていて、シャンヌムは砕け米を食べたのだ。

 

◆植民地の工場の記憶


大邱には紡績会社や製紙会社がいくつもあった。そのなかの一つに片倉製糸もあった。ある日、小学二年生の森崎和江は学校帰りに工場見学を思い立つ。

工場へ一足入って、わたしは後悔した。
女の子とと目が合ったのだ。くるくると廻る機械の前に腰掛けて手を動かしながら、ちらとわたしを見たその子は、わたしより幼く見えた。その目はかなしげだった。戸口は開いていた。開いている戸口の、すぐそばにいた。何か考えていた目を、こちらへ向けたのだ。汚れた白いチョゴリを着ていた。
(中略)
わたしは絹の糸は繭を機械にいれるとひとりでに糸となって出てくるものだと思っていたふしがある。幾台もの回転する機械の前に、一人ずつ女の人が腰掛けている。誰もこちらを見ない。見る暇などない。先程の子が一番小さい子で、あとは十二、三歳ほどの子や、娘やオモニが、茹でたくさい匂い出している繭の浮く湯壺の中から絶え間なく繭をつまんでは、くるくる廻る機械に細い糸をつまみ出しては引っかける。
(中略)
整理のつかぬ感情が粘っこく澱んだ。工場で働く女たちはみな朝鮮人だった。

 

◆植民地の祭りの記憶。

内地では、それぞれの地方に田の神祭りや虫送りや海供養などと、作物や狩猟に関連した共同の祭りがあるのだが、植民地の暮らしにはそれがない。田畠はいくらでもあるのに、田で働く人びとは別だったから。(中略)わたしが米と麦の区別がつかなかったことの根は深く、それは何よりも植民地の日本人を語るかに思う。(中略)朝鮮でわたしが食べた米、その米を作るために朝鮮人の農民が四季折々に農業の神に祈りを捧げ、こまやかに神まつりの風習を繰り返していたのだが、それをわたしは天の川の伝説をなつかしむように眺めるばかりで、労働の実情などまるで知らなかった。
(中略)
朝鮮人を働かせて安楽に暮らしていたわたしたちの祭りといえば、春は軍旗祭、秋は大邱神社祭であった。軍旗祭は天皇陛下から賜わった軍旗を祝して行う聯隊の祭りで、(中略) 
秋祭りは本来ならば収穫祭ということになるだろう。わたしたちもそのように思っていた。(中略) わたしら日本人にとっては、他人に働かせた田畠の収穫の祭りであったのだが、みこしを共に見物している朝鮮人農民の目には軍旗祭とかわりなく見えたことだろう。

 

この根っこのない祭りの風景は、見覚えがある。
日本社会の、都市の、根無し草の住民でしかなかった在日の家に育った私の祭りに対する感覚。植民地の近代性は、そのまま日本の都市の近代性なのだと思えば、腑に落ちる。上も下も根無しの、あとにしてきた風土もばらばらの民で構成された都市。うちはその底辺、もしくは周縁の存在だったのだけどね。

 

当時の日本は昭和の不況期で、失業者三十万といわれていた時である。植民地のこの平凡な生活は内地では都市生活者のもので、一般には四季の行楽や温泉旅行はもとより、お手伝いを置くなど考えられないことだった。水道の普及さえ一部の都市にとどまっていた。

 

◆慶州で朝鮮人の少女と一緒に歌い、語り合った記憶

 

少女が朝鮮語の唄を教えてくれた。そして、秘密も。

 

波が鳴る鳴る

連絡船は出て行く

「お元気でね」

「達者でいろよ」

涙で濡れるハンカチ

心からおまえを

ほんとうにおまえを

愛しているので

涙かくして日本へ行くよ

 

「あのね……」少女が言った。

「何?」

「あのね、日本が戦争をするから雨が降らないのよ。それで日本に働きに行くの。雨が降らないからお米がとれないでしょう」

「戦争をするから雨が降らないって? そんなことないよ」

「おじいさんが言ったよ。大砲をどんどん撃つから空が乾くって」

「日本人もそんなこと言ってるけど……。でもそんなことないと思うよ」

「あるのよ。おじいさんが言ったもの」

「おじいさんが?」

ひそひそと話した。

「おじいさんがね、もうすぐ日本は敗けるって」

「そんなことないよ」

「ほんとうに敗けるって。あのね、王様のお墓の前でお祈りしているよ、夜に」

「あなたのおじいさん?」

「よその人も一緒よ、敗けるように」

窓の外で物音がするようで、わたしは唇に指を当ててうかがったあと、

「ほかの日本人に言ってはだめよ」

と言った。

「言わない」

 

 

『慶州は母の呼び声』を読みながら、

森崎和江の恐るべき詩「ほねのおかあさん」を想い起こす。

森崎和江の、近代的「個」と「他者」と「いのち」の唄を。

 

個が他者を孕む、それがいのちのはじまり、

それを表す言葉を日本語は、近代語は持たない、

という森崎和江の気づきの背景には、

おそらく、おのれのいのちが、そのはじまりにおいて、

朝鮮という他者の懐で孕まれ慈しまれ育まれた記憶があるのだろう。

 その他者を踏みにじること、それが日本の近代であり、植民地主義であったこと。

日本近代の落とし子である「植民2世」であり、朝鮮の人びとにとっては腹の中の鬼子であったはずのおのれの存在を思い知ったときの森崎和江の衝撃を思う。

 

森崎和江にとって、日本の敗戦とともに、世界は一度滅んだ。

そして戦後の荒涼たるはじまりを迎える。

日本社会は、相も変わらず、他者を他者のままに共に生きる思考も言葉も持たなかったから。

 

◆あとがきから

朝鮮語では母親のことをオモニという。わたしという子どもの心にうつっていた朝鮮は、オモ二の世界だったろう。個人の家庭というものは広い世界の中に咲く花みたいなもので、世界は空や木や風のほかに、沢山の朝鮮人が生きて日本人とまじわっているところなのだと、そんなぐあいに感じていたわたしは、常々、見知らぬオモニたちに守られている思いがあった。つまり、それほどに、朝鮮の母たちの情感はごく自然に大地に息づいていた。わたしは行きずりのオモニから頭をなでられ、小銭をにぎらせようとされ、ことばもわからぬままかぶりを振って、まだ若かった母のきものの袖にかくれたものである。(中略)異質さの発見と承認も、わたしはオモニによって養われたのである。 

 

日本の近代、植民地主義が、徹底して否定し、踏みにじってきた世界、森崎和江にとっての失われた原郷が、ここに書かれている。

 

今は地球上から消え果ましたが、なお、子々孫々にわたって否定すべき植民地主義と、そこでのわたしの日々を、この書物にまとめました。書くまでにかなりの月日を必要としました。書こうときめたのは、ただただ鬼の子ともいうべき日本人の子らを、人の子ゆえに否定せず守ってくれたオモニへの、ことばにならぬ想いによります。(中略) 書いたあとのわたしの心を、また以前と同じ、言いようのない悲しみがおおっていますが、これはその時代の申し子の罰として避けられぬものと、あらためて知りました。非力ですので十分に伝えかねていると思いますが、無神経にくらしていたわたしたちの家族の日々を通して、その向こうに、ゆうぜんと生きつづけていたものの大きさを感じとっていただけるなら、と、願っています。

 

あらためて、

森崎和江の言葉を読むこと、聞くことは、私にとってはとても重い、悲しい、そしてなによりもその厳しさに打たれる。

森崎さんに呼ばれつづけていたというのに、その深い思いに応えきれなかったかつてのおのれの幼さと非力をつくづくと思う。

いのちのはじまりの思想を継承してゆくこと、いのちのはじまりを語る言葉、他者とともにはじまるいのちを語る言葉を紡ぎ出すこと、その言葉で世界を語りなおすこと。

 

人間とその世界に突きつけられた大きな問いとして、森崎和江は在る。