ナマケモノ

引越しをしてまだ一年経たないというのに、近々また引越ししなければならぬ雲行き。いよいよ人生の始まりの場所であった鶴見に、ふたたび住むことになりそうな模様。

岩波『図書』10月号 「イエスの絶叫をめぐって」(大貫隆)をしみじみと読む。たとえば秋葉原の無差別殺傷事件の被害者のような非業の死、「死ぬに死ねない死」をきっかけに、その死を前にした者の「神さま、どうしてですか」という呟きをきっかけに、筆者は磔になったイエスの言葉「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ/わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」をめぐって思考する。


問い:イエス・キリストはわたしたちの罪を贖うために死んでくださっている、のだろうか?
   イエスは自分自身にとって意味不明の謎の死を死んだ、のではないか?


大貫隆氏曰く「死ぬことができる死ばかりではなく、死ぬに死ねない死が歴然と存在することは、秋葉原だけにとどまらない。ナチス強制収容所ユダヤ人たちの死も同じことを示している。人間の生と死の現実そのものに照らしても、イエスの受難を贖罪の供犠と解する伝統的・規範的な見方の限界は、明らかだと言わなければならない。聖書とキリスト教をめぐる現代の思索の中でも、その限界はすでに気づかれているのである。死ぬに死ねない死を死ぬほかなかった犠牲者とその遺族を支えることができる神は、同じ死の苦しみを自ら経験したことのある神、すなわち、「十字架につけられた神」でしかありえないと考える神学がそれである」



本日の気になった言葉。
ニーチェ「いっさいの書かれたもののうち、わたしはただ、血をもって書かれたもののみを愛する。血をもって書け。そうすれば、君は知るであろう。血が精神であることを。 ひとの血を理解するのは、たやすくできることではない。わたしは読書する怠け者を憎む」(『ツァラトゥストラ』より)。


イプセン「ほとんどの人はあなたのほうが正しいと言うでしょうよ。トルワル、それにあなたの後ろにはいっぱい本がくっついているのよね。でも世間の人の言葉やあなたが本で見つけた理屈だけじゃ、もう安心できなくなった。あたしは何でも自分で考えて、自分で決めたい」(『人形の家』より)

泉谷閑示「「経験」とは、自身の内的な成熟のために「心の平衡を失うこと」を厭わずに「身を開いて」生きることなのである」(「読書する怠け者、読書しない怠け者」より)。