森崎和江『海路残照』  メモ その1 玄界灘鐘崎編 

渚への「寄り物」としての火いかの話をする女がいる。

 

この鐘崎の浜はいろんなものが流れてくる所たい。と語る老人がいる。

 

鐘崎を、いのちの語りを求めて彷徨い歩く森崎和江は、人魚の肉を食べて、あるいは貝の肉を食べて、不老不死となった八百比丘尼のことを考えている。

 

幾百年も生きつづけている海女の話は、どこかかなしい、愛した男も、育てた子も、すでにいない。愛の追憶さえむなしいほど、深い時間が広がる。それはひとりの個体にとって無時間にひとしいほどである。時間のない世界を旅する女を、人びとはなぜ語り伝えたのか。死なないいのちとはなんであるのか。生きながらえるいのちのおぞましさが身にしむ。が、そのような受けとり方は、遠いむかしこの話を語り伝えた人びとの心とはまるで違うのかもしれない。むしろ、その物語の発端は、やはり生命賛歌であって、潮に乗って訪れてくるいのちの話であったのかもしれない。

 

老人は、いま生きている人間の数と同じくらい、海の中に仏さんがいると言う。

海女にすがる仏さんの魂(タマカゼ)を祀りもすれば、海を流れるている仏さん(水死人)を舟に引き上げておまつりもすると語る。

海女は海に潜るとき、舟ばた叩いて、トウ・エベスさまと言って潜るのだと言う。海で拾った仏さんもエベスさまというのだという。無縁仏にはしないで拾い仏さんとして家に祀るのだと。

 

拾うということばはこのようにかがやかしい。それはよみがえりや復活に似ている。死者にその所を与え、生者もともに救われる。わたしのなかで、そのことばが蘇生してくるのを感じながら、海にただよう死体をエベスとよぶ、その死とよみがえりを思う。その生死の境界に柵を設ける者は海にはいない。死者と、福をさずける神とのあいだに、無限の距離を読む者は、海に働く者にはいない。(中略)

死はけがれだと『古事記」や『日本書紀に』に記された神話はここにはない。(中略)

生者に拾われることを待っている死者たちそれは取りあげてくれることを待っている胎児のいのちのように、他者なしにはその所を得ない。拾われまつられるまで、生者でもなき死者でもない霊のさまよいを、不慮の死をとげた霊たちが海のなかでつづけているんだと、そう古老は語っているのだが、そのただよいは、老いもせず若返りもしない時空であるのだろう。(中略)それはいのちが生まれるまでの胎児のいとなみの反映なのかもしれない。

 

森作和江が生涯追い続けた「産みの思想」(これは海の思想なのかもしれない)とは、自他の境界を超えてこそつながるいのちを語らんとするものであり、その言葉を探し続けていたのだということ。

 

老人が語りつづける。海女は舟で昼めしをたべるときに、必ず一箸、ムネンボウカイ(無縁仏)さまにあげます、といって一口分海に投げるのだと。盆の三日間の祭りの最後の日は、ムネンボウカイをまつる水まつりをするのだと。

 

砂浜に夕方暗うなってから出て来て、そして観音さまをこしらえると。どの家の者もゆくる。(中略)その砂の観音さまにわが家の仏壇にそなえたものを、どれでもすこしずつおそなえして、ムネンボウカイさまにあけます、というて拝む。(中略)そして盆がしまえる。

 

海辺の民の祭りを語る森崎和江の眼差しは遠い南島の民の祭りの風景にまで。

明治国家が禁止した風土の祭りへ。

海から迎えた神と三日間、太鼓叩いて三線鳴らして歌って踊って遊ぶ祀り。

 

森崎和江はしきりに国家によって体系化され、封じられたカミたちへと思いをはせる。

庶民たちがその生活の現場で神に祈念をささげ集団の幸を願った神事の様子は、国家神道祭政一致で展開してきた歴史のかげで、ちりぢりにっみえなくなっている。

(中略)

ゆたかに海洋に神をみてきた人びとの精神界が、異神排除にも似た方法で、片隅におしやられたり、管制の神観念下に体系化されて息を失いかけたのはつらく思われる。

(中略)

折口信夫のいうところの)「海辺伝来の信仰」は玄界灘の海女浦を中心にこの小著でふれてきたように、いまは心象風景のようになってさまざまな神仏の教義といりまじっている。が、わたしにはその原点は、いのちをもたらす海、というものであると思われ、生命と生産の象徴のような子をはらむ女神の話や、拾い仏さんに寄せる浦びとの情感が、浜辺の砂の観音さまともども心にしみている。

 

森崎和江の「海路残照」の旅が、どのような旅になるのか、すべてはすでにここに書かれている。

 

この旅は、宗像から小浜へとのびてゆく。