とにかく歩いた。

3月11日、地震直後、まずは三河島から日暮里駅を目指して歩いた。情報が何もないなかで、とりあえず、山手線の駅に行ってみようと。

三河島育ちの地元っ子の鄭さんが当然に何の迷いもなく、道をゆく、「あ、ここの駄菓子屋、子どもの頃によく来た」、そんな声を思わずあげながら歩く鄭さんとともに行く、日暮里駅、人が既に集まり始めている、駅に入るエスカレーターの乗り口には黄色いテープ、そうか山手線も止まっているのか、さて、どうしようかと駅前に立てば、警官が広域避難場所の谷中墓地に行けと言う。広域避難場所に避難しなくてはいけないほどの事態なのか……? ピンとこないまま、ああ、谷中墓地はこっち、とスッと歩き始めた鄭さんについていく。

日暮里駅前から、ひょっと、坂をのぼって丘の上に。谷中墓地。もう人がそれなりに集まっている、墓地が生者で賑わっている、長谷川一夫のお墓があるのよねぇ、と賑わう墓地を通り抜けながら鄭さん。一つだけ、墓がくずおれるように倒れている。道々の公衆電話に人が並び始めている、そうだ、携帯は全然だめなんだ、でも墓地の公衆電話もなんだか調子が悪い、つながらない。墓地を通り抜けて、路地に入って、点々と立ち並ぶお寺を眺め、日本美術院の立派な建物を通り過ぎ、鄭さんのよく知るお寺さんへ。ひと休みしつつ、電話もお借りしつつ、今後のことを考えることにする。ここでようやく、テレビの速報をなめるように見て、ようやく事態が飲み込めてきた鄭さんと私は、ここで初めて、それぞれに、私なら横浜まで、歩いて帰るしかないことを悟った。

悟ったならば、すぐにでも歩き始めたほうがいい、16時過ぎ、丘の上の谷中から、根津へ降りる、このあたりで、早くも、まるでいつもそうしているかのように、ごく自然に、当たり前の顔で、淡々と道をゆく人々の大きな流れに行き会う。根津の交番近くの早稲田行きバスのバス停には人が列をなしている。来るバス来るバス隙間なく満員。バスは無理だ……、根津から上野へと不忍池の脇を通ってゆく、ここまで来て寒さに耐えかねて、ABABのなかのユニクロで何か上着を買おうと思ったが、ABAB自体が早くも臨時休業。隣のRIDE-ONで紫のマウンテンパーカーを買う。そして、上野から湯島経由で本郷方面へ。既に大渋滞が始まっている。

さらに春日→水道橋→飯田橋と歩いてゆく。もう横浜に帰ることは諦めている、鄭さんの「うちにおいで」という言葉に甘えて杉並の鄭さんの家にお世話になることにとして、飯田橋エドモンドホテルで鄭さんの夫君と娘さんが車でピックアップしてくれるのを待つことにした。この時点で20時前。

さてさて、その後、車を待つこと2時間。車に乗ってから杉並方面の家まで6時間。ようやく家の中に落ち着いたのは午前4時。ここにたどり着くまで、たどりついてからも、ずっと身も心もぐらぐら揺れていた。


三河島→日暮里→根津→池之端→上野→御徒町上野広小路)と、歩いて歩いて歩くうちに、電車に乗っているだけでは分からない、人間の足だけが知る地図が足元からじわじわと体にしみこんできた。

三河島から池之端へと移り住み、上野、御徒町あたりを足場に商売を広げていった、済州島出身の在日のある一家の生活地図がリアルな空間として立ち現れてくるような思いがした。

わが家もまた、かつて、三河島から川崎、そして横浜・鶴見へと移り住んでいった。この移動と暮らしの地図を思い描いてみる。

随分前に亡くなった祖母が、孫に聞かせる昔話の定番だった、関東大震災の時に白いチョゴリを着ていたがゆえに自警団に捕まって、燃え上がる交番に投げ込まれたおばあさんの物語は、祖母が日本で一番最初に暮らした三河島あたりの記憶のかけらから生まれた物語だったのだろうか。