靴下ボックスにレタス

我が家に小さい人2名が遊びに来た日の夜、私の靴下ボックスに緑色の新鮮なレタスの葉が一枚しまわれていることに気づいた。彼(おそらく、ソースケ、2歳児)の目には、レタスも靴下も同類だったのだろうか。


フクシマのことを思ううちに、どんどんミナマタに近づいていく。『聞書水俣民衆史』はフクシマを考えるうえでの必読書に思える。ミナマタを思っていたら、今度は奄美へと漂い出していく。
20年ほども前、沖永良部出身の両親を持つ「在本土 島人二世」の作家干刈あがたさんのお供をして水俣を巡り歩いたことがある。干刈さんと石牟礼さんと、水俣女島の海辺で緒方正人さんのご指導のもと牡蠣打ちをしたこと、干刈さんと石牟礼さん宅の宴に招かれて、その時に干刈さんが島の唄をとても真面目な顔で一生懸命に歌ったことなどをを糸をたぐるようにして次々とありありと思い出した。
今福龍太『群島−世界論』所収の「二世の井」で、久しぶりに干刈さんに出会って、(干刈さんがこの世を去ってもう幾年になるのだろうか…)、実に懐かしく、その一方で心がずきずきと痛むようでもあった。


以下、「二世の井」より。
(島の)井川の水は、常世の死者たちが生者と繋がる未知のヴィジョンを彼女に与える。シマことばで歌われる島唄を聴き、意味もわからずにただ涙を流す自分のなかに、ユリは血が流している涙を感じはじめる。珊瑚礁のヤスリのような岩で膝頭を傷つけて滲み出した血が、足元を浸す満潮のあふれる水のなかに流れこむのを見ながら、彼女は島との不思議な一体化の幻影にとりつかれてゆく。
(「彼女=ユリ」は、干刈さんの短編中の主人公であり、干刈さん自身の分身)。


今福さんは、干刈さんを指して「二世という宙づりの、しかしある意味でもっとも純粋な魂」と呼び、若き干刈さん(たぶん20歳頃)が島と出会い、島の秘かで聖なる場所である「暗川=井」で見た夢に、「土着の幻想を離れた未知のシマ渡りの想像力」の誕生を感じ取る。二世の「不可能な帰郷」の夢。

シマから島へ、宙づりの魂を抱きしめての、シマ渡り。今夜も島からシマへ。