その時は三河島の路上にいた。

3月11日、午後1時に鄭暎恵さんとJR三河島駅で待ち合わせ。
三河島育ちの鄭さんの思い出の路地をたどり、倉庫のようなお店で食べた幼い頃のごちそうだったセッキフェの話を聞き、在日の子どもらが通ったという真土小学校(現在は学校ではなくコミュニティセンター)を外から眺め、戦時中の疎開の時には在日の子どもたちばかりが疎開には行けずに小学校に残っていたらしいという話を聞き、二人で焼き肉屋で石焼ビビンバを食べ、焼き肉屋の先にある昔ながらの小さなコリアンマーケットを覗き、鄭さんはハチノスを、私はオクスス茶(コーン茶)とテチュ(なつめ)を買い、それをぶらさげて、仲町通りへと向かい、やはり在日が多く住んでいたという外から見たら2階建て、中に入れば3階の古いアパートに足を踏み入れ、急な階段を3階まで上り降りし、「ああ、いま地震が起きたりしたら、ここは危ないな…」などとふっと不安になったり、この三河島あたり、つまり荒川区のあたりは、関東大震災の際の朝鮮人虐殺の折も大変だったのだろうなと思ったりしながら、路地を抜けて、やや広い道に出て、朝鮮初等学校目指して歩き出した、そのときに、鄭さんが「あら、揺れている?」
うん、確かに足元がゆら〜りゆら〜り、連絡船に乗っているような大きな触れ幅に揺れ、それがだんだん時化のように、荒波にもまれる連絡線のように(数年前、稚内からサハリンへとその冬最後の連絡線で渡ろうとした時、厳冬の海は大荒れで、沖合いに出た途端に右に左に上に下にぐるんぐるんと船は揉まれて、ついにはこれ以上進めば転覆するとぐらんぐらんと船は大きく震えながら稚内に戻った、そのときのことを思い出した)、目の前のマンションがミシミシと音を立てて左右に揺さぶられている、道に飛び出してきた来た人々が息をのんで立ち尽くしている、背後では大きな冷蔵庫を数人の人々が必死に抑えていた、というのは鄭さんの目撃談、あっ、マンション崩れるかも、さっきのアパートは大丈夫なのか、それにしてもここにいては逃げようがないな…、と思い始めたときにようやく波が静まり始めた、ああ、船はなんとか港に帰りついたと、三河島の路上で、大きく息を吐く、路上の半径20メートルのことしか分からぬ場所で慌てて携帯で地震情報を取ろうとするが、指が震えている、小刻みに、震える指を見て自分の心が震えていることに気がついた。
それから10分ほどして覗き込んだ朝鮮初級学校では既に子どもたちが全員校庭に集まっていた。さらに揺れる心を抱えて三河島の路地をゆく、お風呂屋さんの屋根の瓦が落ちて割れている、鄭さんがセッキフェを食べた想い出の山田屋の前を通る、昔のような倉庫的店構えではなく、こぢんまりとしてはいるがすっかりきれいになって、もうセッキフェもメニューにはない、その店の奥のテレビで地震情報、震源は東北、マグニチュード8.2、東京は震度5強、この古い町、古い建物たちは震度5強を耐えたのだなと震えの収まらぬ心で呟いて、腰をおろして次の動きを決めようと喫茶店ウィーンへ。ウィーンでは大きな猫がぶるぶると震えて、飼い主に抱きしめられていた。ウィーンのテレビで津波の光景を初めて見た。心がのまれて押し流されていくようだった。
ウィーンを出て、日暮里駅へと歩き出した。常磐線は止まっていて、三河島駅には既に閉鎖されていた。