取り返しがつかない

インタビューの文字起こしの合間に、チェーホフを読む。『六号病棟・退屈な話』(岩波文庫)。

『第六病棟』。哲学する小人、決定的に他者への想像力を持ち合わせない無意識の特権者、アンドレイ・エフィームイチ医師を襲う、想像力の欠如ゆえの取り返しのつかない事態。

田舎町の医師は、精神病棟である第六病棟を訪れ、ようやく出会えた知的対話の相手である被害妄想患者8過剰な想像力を病む者)であり、第六病棟に幽閉されているイワン・ドミトーリチにこう言う。
「暖かい気持ちのいい書斎とこの病室とのあいだには、なんの違いもありませんよ」「人間の安らぎと満足とは、外部にあるのではなくて、内部にあるのですからね」「凡人は、いいことや悪いことを外部に、つまり馬車や書斎に求めるけれど、思考力のある人間は、自分自身に求めるのです」「マルクス・アウレリウスも言ってますよ、『苦痛とは、苦痛についてのなまなましい観念に過ぎない。意志を鍛えて、この観念を変えよ、この観念を棄てよ、苦痛を訴えるのを止めよ、さらば苦痛は消え去らん』って。まったくそのとおりだ」

イワン・ドミートリチ「重宝このうえない哲学ですね、何ひとつしなくたっていいし、良心は安らかだし、賢者気取りでいられるし……。いや、せんせい。こいつは哲学でも、思想でも、広い人生観でもなんでもありゃしない、ただのぐうたら、ごまかし、讒言ですよ」「だが、もしもあなたが卒中に襲われたり、どこかのばかや恥知らずから身分や地位を笠に着て公然と侮辱され、しかもそのことでなんの科も受けないことがわかったとしたら、そうすりゃあなただって、ひとに人生の理解や真の幸福を説いたりすることが、どんなことかおわかりになるでしょうよ」

このイワン・ドミートリチの言葉を知的と受け取り、ただただ楽しんだ医師は、イワン・ドミートリチの過剰な想像力どおりの運命に襲われる。

精神病棟である六号病棟にぶち込まれ、門番のニキータにしたたかに殴られたたアンドレイ・エフィームイチの心情をチェーホフはこう描く:
「すると急に脳裡に、混沌とした中に、鮮やかにひらめいたのは、いま月明かりに黒い影のように見えるこれらの人びとが、これとまったく同じ痛みを何年ものあいだ、来る日も来る日も味わわなければならなかったのだという、恐ろしい、堪えがたい思いだった。どうしてそんなことがありえただろう、二十年もその上も、そのことを知らなかったばかりか、知ろうともしなかったなどということが。痛みということを知りもしなかったし、わかりもしなかった。ということは、彼には罪はないわけだった。だが、良識というものが、二キータのように融通のきかない、粗暴な良識というものが、頭のてっぺんからと爪先まで彼をぞっとさせた。彼はぱっと跳ね起きた。そして声をかぎりに叫びたい、一刻も早く駆け出してまず二キータを殺したい、それからホーポトフを、事務長を、准医師を殺したい、そして自殺したいと思ったが、胸さきからは声ひとつ出ず、足は言うことをきかなかった。喘ぎ喘ぎ、彼は胸もとの病人服やシャツを引きちぎり、引き裂いて、意識を失ってベッドの上に倒れこんだ」

取り返しのつかないところまできて、医師はおのれの想像力の欠如を知る。それでもなお、想像力の欠如ゆえにおのれは無罪だと思う知的洞察力の欠如。想像力の欠如は、現実による復讐を受ける。洞察力の欠如は、みずからに免罪符を与える。いずれにせよ、取り返しはつかない。


『退屈な話』もまた、取り返しのつかない話。功成り名を遂げた老教授がいる。彼は他者とのあいだに「共通理念」を分かち持つ意志もしくは能力に欠ける。他者から切実な、生き死ににも関わる問いが投げかけられても、「共通理念」の欠如、つまり他者への想像力の欠如ゆえに、問いに対して、何をどう判断したらよいものか皆目分からず、共に問いに立ち向かうということもできない。「わたしに何が言えるだろう、カーチャ」「ほんとうのところ、カーチャ、わたしにはわからないのだよ……」。そして、老教授はカーチャ(=「わたしの宝」)を失う。


取り返しはつかない。