森崎和江  北への旅  メモ

 

『対話 魂ッコの旅 森崎和江 野添憲治』より

 

◆北へと向かう心

 

どうして北に行きたいということになるのかなというとね、私、「辺境」という言葉が嫌いなんです。だってどの地方にも固有の生活史はあるんですもの。それぞれの地域にくらしの遺産は深く残っているはずですけど、地域的個性はどんどんくすれていってる。そのこわされずに残っているところに行きたいわけ。そうだとすると、北の端のほうをえらびたくなるんです。そこは「辺境」というより、地域の個性が生きてるところだっていう気がするわけですよ。野添さんのご本などを拝見していますと、そういう生きてるところに行って、もし私にも何かが感じとれるなら、今度は三〇年はかからずに、一〇年ぐらいで心の握手ができるんじゃないかしらと(笑)、そう思ってね。この日本の中で、北ぐにが支えて来たものは何かしら、と。 P9

 

 

◆ここで森崎さんが語っているのは、詩「ほねのおかあさん」の底に渦巻く声。

沈黙の重さというのがあってね、私、女だからそう思うのかもしれませんけれども、自分のなかに「古代」がそのまんま生きていると感ずるほど表現できないものがあるんですよね。ほんとうに。ここが表現できたらば私はもう言うことはないという何ものかがありましてね、それを言語化したいなあという気持ちがあるんです。でも、その方法がうまく見つからないんですがね。今日もあおばあちゃんに、このあたりに昔、産小屋がありましたか、なんて聞きましたけれども、これは、子を生むということは、人間は死のことについてはかなり言語化できていて、死とは何かとか、死後の世界はとか想像力をかき立てて思想化しますが、一人の生命はどこからきたのかという、生命の生誕に対する意識化というか、それを表現する力というのはまだまだ人間にはないと思うんですよね。なくてもかまわないと思いますけれども、古代社会はその無言をバネにして生産にはげんできましたでしょう。一切の作物の。

 女というのは生命を自分の体内に宿しますでしょう。そして、生命(いのち)あるものとして体外に産ませますね。ですからね、自分の肉体のなかには肉体の言葉としていっぱいあるわけですよ。でもね、フツフツとどぶろくがかもしだされていく様を名人芸で知るように、自分の肉体が生命を宿してね、それがだんだんとひとの生命になっていくという、ことばで表現できないところを、かつて女は社会的に認めさせていたんです。作物の身の李や、旅に出る人の安全や……。自分の肉体のなかで他人の生命が成長しているわけでしょ。それは他者ですよね。他者を自分のなかに孕みながら、一体化し、そして産むんですが、それをなんと言っていいか……。「物言わぬ農民」ではなくて、『物言わぬ女」というか「母胎」というか……。でも物言っていないんじゃない……。P91

 

 

◆野添さんの応答の素晴らしいこと!

 

野添 米を作る農民が一番生き生きとしてくるのは、刈り入れの時ではないんですね。よく「稲の中に魂’(たまし)ッコ入る」というんですが、そのころですね。(中略)

 稲の穂になる部分が稲の体内に宿った時。稲の色が変わるんです。(中略)ああ、魂ッコこれだけ伸びてきた、今年は豊作だとか、不作だとかってことが、その時に判るんだそうです。

(中略)

 

森崎 「ああ、できた」っていう感じね。(中略) 「魂ッコ入(は)った」ね、いい言葉ですねえ。

 

野添 一種の村の原体験みたいなもので、ものをつくる者の喜びと不安みたいな、どう仕様もない、いても立ってもいられないような苛立ちみたいな悦び、その当時の米作り農民の体内にはあったんですね。

 

森崎 それまで存在していなかったものが、生命として存在する瞬間の何か……、感情なんでしょうね。そして、それがきちんと存在してしまって、育ってしまえばあとはもうこっちは死んでもいいんだ、役目を果たしたということなんでしょう。「魂ッコ」というんですか。何かこう、ものの精霊の根源みたいなやつ……。

 

(中略)

 

野添 そうそう。やっぱり「魂ッコ」なんだな。ですが、それはだれにでも言えるわけではなくてね。やっぱりわかるのは、種を蒔いて育ててきた人なんです。その人がいちばんよく判るんですね。でもそれは言葉では言えないようなものですから、「魂ッコ入った」ということになるわけです。(中略)そういう言葉にならないものを「魂ッコ入った」というような言葉で接していく、これがやっぱ民衆の接し方であったのだろうということですね。

 

野添憲治森崎和江のこの対談本を作った簾内敬司は、

『原生林に風がふく』で、東北から戦後を見すえた「戦後の闇」について、森崎からの便りに応答する形で書いている。

 

簾内は昭和39年に小学校を卒業、その年は東京オリンピックの年であり、その年の春は集団就職列車の走り始めた年度の終わりだったと、簾内は語る。

 

高度経済成長という政策をデザインした当事者は経済企画庁なねしょうが、労働省日本交通公社と提携して集団就職列車を準備し、十五歳の少年少女たちを日本の津々浦々の農山村にふるさとから大都市の工業地帯へと運んでいったのでした。

(中略)

この十五歳の少年少女たちは、国策としてこの高度経済成長の過酷な最前線へと送り込まれていったわけですが、(労働省資料ではこれを「計画輸送」と呼び、それはその後十年以上もつづけられるのですが)、この昭和三十年代から四十年代にかけての時代経験が、私の生ま身の記憶からうれば、この国が戦後社会から現代社会へと変容していく分水嶺であったように思うのです。

 

この分水嶺を境に、

私たちの北東北では、過去百年を遡る樺太や北海道という北へとに向かっていた出稼ぎが、感性の記憶を喪ったもののように、一気に方向転換して南へと向かい始めた、

と、簾内は言う。

 

感性の記憶を喪ったもののように、と。

 

そして、さらに、簾内は昭和三十年代の小学生の頃の「正しい日本語学習」もしくは「標準語学習」を語るのである。

 

これを戦前からの皇民化教育の延長線上に捉える一般的な見方に対して、簾内は次のように語る。

 

私は一面でそのことを認めつつも、一面ではそれが変質と変容を見せていく過程として、「五〇年代末から六〇年代はじめには」沖縄の新規中学卒の十五歳の少年少女たちは、どこへ集団就職したものであったろうかと考えるのです。つまり、沖縄の子どもたちもまた日本の高度成長の下支えのために、言葉に激しく傷つき傷みつつ大都市の工業地帯の闇へ吸い込まれていくことになるという延長線上にこそ、戦後の学校規模の「方言札」は私たちの「胸のリボン」の裏返しのようにしてあったのではないだろうかと。そして、むろん、そのことは戦前・戦中から一貫して沖縄が味わった日本の皇民化教育の罪業そのものをいささかも逆に変質させたり変容させたりするものではありませんが、ことさらに戦後のその時期、北から南まで独自の生活の言葉を伝承されていた農山漁村の子どもたちは、根こそぎ高度経済成長の無言の下支えのための、集団就職に向けての植民地化教育を受けながらならなかった記憶を持つ者ではなかったでしょうか。

 

標準語教育は戦前は、指揮官の命令のもと、一糸乱れぬ軍隊の動き、校門から営門へと続く兵隊づくりを大前提としていたとすれば、

名目上軍隊泣き戦後社会では、工場で一糸乱れぬ労働戦士を作ることを大前提としたのだろう。