またもや引っ越し

わけあって来月早々また引越し。今のところは私にしては比較的長期の二年間住みました。
乱歩に負けない引っ越し魔ぶりは収まらず、この6年間で6回目の引越しとなる。
引越しで一番困るのは本。荷造りする時も、荷解きする時も、本棚から出した本は床一面を占拠してしまうから、
処分する本、取っておく本と仕分けして、そのうえで宅急便まで駆使して、引越し本番とは時間差で送り出し、
時間差で受け取るという秘術も繰り出す。じゃないと、引越し先で、の段ボールゆえに身動きもできないほどの
惨状に見舞われる。

というわけで、本の整理をぼつぼつはじめて、久しぶりに『暴力の予感』(富山一郎 岩波書店)をぱらぱらめくり、
ああ、これは今の私に必要な本だったと、思わず読み返す。(これをやるから作業は遅々として進まない)。

http://www.amazon.co.jp/%E6%9A%B4%E5%8A%9B%E3%81%AE%E4%BA%88%E6%84%9F-%E5%86%A8%E5%B1%B1-%E4%B8%80%E9%83%8E/dp/4000021052

とりわけ序章、「予感という問題」。

「大震災の時、標準語がしゃべれなかったばっかりに、多くの朝鮮人が殺された。君達も間違われて殺されないように」。
(戦前、沖縄の小学校での教師の言葉)

この言葉は、単に標準語を身につけて同化することで生き延びるという意味合いではなく、
「暴力に対峙する言葉の臨界」を指し示すものとして差し出されている。
殺された者の傍らにいる者の声として聴かれている。

死体の傍らで、暴力に抗して、ぎりぎりと発せられる言葉の、可能性をつかみとる。
死体の傍らで、暴力に抗して、ぎりぎりと沈黙する、そうして身構える者たちの沈黙のなかに潜む、予感をつかみとる。

過去の教訓めいたものとしての暴力の記憶ではなく、
予感。
迫りくるものとしての暴力の予感。

「殺された死体の傍らにいる者が獲得すべき暴力に抗する可能性こそ、記述という営みにおいて提示しなければならない。そしてほとんどすべての人が、死体の傍らにいる。人は、死体に一体化することも、死体から逃れることも、できない。だからかかる意味では、世界は常に可能態でもある。私たちの言語行為をめぐる基本的な状況とは、このような世界なのだろう。そして死体は語りはしない。この呪われた世界から言葉を注意深く紡ぎ、暴力に抗する可能性をわれわれの可能性として思考することこそ、誰の言葉であれ、言葉にふれることのできる者たちがなすべきことである」(『暴力の予感』序章より)

死体の傍らに生きるわれら、という認識が、偏狭なナショナリズムや憎悪へと誘導されていく道筋ばかりが整えられるつつあるなかで、
いまいちど、「死体の傍らに生きる私」が、生き抜くための言葉をいかにしてつかみとるのか、それが問われている。


さて、これから、明日川崎・桜本 青丘社で話すことを考える。