丹後由良へは、京都から西舞鶴に向かい、北タンゴ鉄道に乗り換えていく。
由良川にかかる赤い鉄橋を電車わたる。
「ゆらのとを わたるふなびと かじをたえ ゆくえもしらぬ こいのみちかな(そねのよしただ)」
丹後由良駅。背後に由良岳。かつて、由良長者千軒湊と、北前船で賑わった港町。今は宮津市・天橋立と舞鶴に挟まれて、観光もなかなか立ち行かず、町はひっそり、ほとんど限界集落になっているという。
安寿と厨子王を守ったと言われる身代わり地蔵尊が祀られている如意寺。
快慶作のこのお地蔵さんは、地元では「身代わりさん」と呼ばれているという。
ふだんはひっそりとしているこの寺も、「身代わりさん」が御開帳される地蔵盆のときには人々がお参りにやってくるのだという。
「身代わりさん」の右肩には抉られているような傷。胸元は焼け焦げている。
境内には山椒太夫首塚。「一引き引きては千僧供養。二引き引いては万僧供養」。百と六回、鋸で引かれて落ちた首が祀られているのか・・・?
安寿が汐汲をしたという汐汲浜には、森鷗外文学碑。 こんなに荒い海で汐汲をしていたのか、安寿は。
この地に生きて、過酷な労働をして、安寿と厨子王の物語を呼び出した者たちは……。
この港町から、北海道・台湾・満州と植民地に雄飛した、町の名士。鉄道建設にも多く携わったという。
人々が移動・流浪する近代日本の落し子のような人。
山椒太夫首挽きの松は、由良から宮津へと抜ける山道の途中。竹林抜けて海が見える場所。
おそらくここは汐を炊くための柴を刈る山。厨子王が柴刈りにきた山。
由良から舞鶴へと抜ける道沿いにも、安寿と厨子王ゆかりの銅像やら、遺跡やら。
山椒太夫から逃げた厨子王が追っ手を逃れてかくまってもらったという国分寺の跡。毘沙門堂が立つ。
毘沙門堂の中には、お大師さん、不動明王、毘沙門天、役行者。
安寿と厨子王が別れの水杯を交わしたという跡もある。
安寿塚。
厨子王を逃した安寿は和江の峠で飢えて死んだという。
和江はかつえ、飢えもかつえ。かつえた安寿の和江峠。おそらく、この地では、行き倒れた者たちも多かったのだろう。
安寿塚のある敷地のなかには休憩所。休憩所には「山椒太夫」の芝居の場面が描かれた絵が三枚。
こうして道行くうちに、さまざまな「山椒太夫」伝説があることが、次第に体をとおしてわかってくる。
安寿も厨子王も実は無数にいたのだろう。
安寿も厨子王も何度も死に変わり、生き変わってきたのだろう。
今の世の安寿と厨子王の行方を思って、私もまた旅をゆく。
この日の小さな旅は、如意寺のご住職のお導きによるもの。