男の名はヒロシマ、女の名はヌベール」

メモ。

『24時間の情事』(監督アラン・レネ 脚本マルグリット・デュラス)を観た。
原作&脚本のデュラスは言う。

「わたしは思い出す、一九四五年八月六日のことを。わたしと夫はアヌシー湖に近い収容所の家にいた。ヒロシマの原爆を報じる新聞の見出しを読んだ。急いでその施設から外に出た。道路に面した壁によりかかり、そのまま立ったままで気を失った。少しずつ、意識が戻ってきた。生を、道路を取り戻した。同じように、一九四五年、ドイツの強制収容所で死体の山が発見されていた。(中略)それからわたしは生涯、戦争について書いたことはない。あれらの瞬間についてもけっしてね。ただ、強制収容所についての数ページがあるだけ。それと同じだけど、ヒロシマって依頼されたのでなかったなら、けっしてヒロシマについて書くことはなかったはずね。ほら、書くことになると、わたしはヒロシマの膨大な数の死者とわたしが発明したたったひとつの愛の死を対峙させた」

フランスのヌベールという街、戦時中に、18歳のフランス人の娘が、街を占領中のドイツ兵と、許されぬ恋におちる。フランス解放の日、ドイツ兵は殺される。同時に娘も生きながら死ぬ。
そして、それから幾年も経って、女優となって撮影のために広島を訪れた女が、広島で日本人の男と恋に落ちる。

小説『モデラート・カンターヴィレ』のように、死の匂いのまとわりつく過去の恋を、ことさらに、演じるかのように、まるで何かが取り付いたかのように、狂ったかのように、時には叫び声をあげながら、出会ったばかりの24時間の恋人たちは語りあう。彼らは生身だけでれども、なにごとかの象徴でもある。ヒロシマの恋は、ヌベールの恋を呼び出す、よみがえらせる、すり替わっていく。

情事の場面からはじまる。
しかし、二人の体には異様な何かが降り積もっている。
異様な、死の匂いに満ちた、たぶん、あれ。

ヒロシマの男がフランスからやってきた女に、君はヒロシマのなにも見ていないと言う。
女はすべてを見た、すべてを知っているという。ヒロシマのすべてを、と言う。

すべて思い込みだ、と男は言う。
いいえ、恋には幻想があるわ、と女。
忘れないという幻想。私は広島を忘れないと思った、と女が言う。恋のように、と。

危うい、ぎりぎりのところをゆく表現で映画ははじまる。

女は何を知っているというのか?
女が言う「恋」とは何なのか?
デュラスが差し出す「恋」とは?

女・:わたしが望んだ 不実も不貞もうそも死も。
   わたしを変えて わたしを壊して 誰もこの欲望は理解できないわ。

デュラスの傷、デュラスの狂気、デュラスの破壊と結び合わせて考えること。

ヌベールの恋、ヒロシマの恋。
これは、亡霊たちの恋なのではないか。
語りえない領域の。

女:ヒロシマ あなたの名前
男:そう 僕の名前だ。君の名前はヌベール、フランスのヌベール
fin

いかん、もういちど観ないと、落ち着かない。