『苦海浄土』を読み直している。第三章「ゆき女きき書」を読み終えたところで、正気を保つのがやや難しくなる。

ゆき女の声は、石牟礼道子の声でもある、じょろり浄瑠璃)を語って旅する六道御前の声でもある、数限りない死者たちの声でもある、

石牟礼道子が言う「じょろり浄瑠璃)」とは、「説経」をさすものと思ってもらっていい。

文学が死者たちの声の賜物であるならば、(私は強く深くそう思っている)、その声を宿す器としての「じょろり/説経」を石牟礼道子が選びとったことは、まことに意味深い。


近代の死者たちの声を聴きとり語りだすのに「じょろり」を越える器を実は近代文学は持ちえなかった、ということをその文学で私たちに突きつけたのが石牟礼道子なのだ、とあらためて痛切に思う。

石牟礼道子の死によってわたしたちは近代文学の終焉に立ち会ったのだと、あらためて痛切に思う。


かつて、「人間よ、滅びろ、滅びろ」と静かに語る石牟礼さんを前にして、滅びろと呪詛されている近代しか知らない私は、「滅びてたまるか」と心ひそかに思ったのであるが、
いまでもこう思う、石牟礼道子とともに文学が終わるわけにはいかないではないかと。



ゆき女は「ゆき女きき書」の最後にこう言う。

「うちゃぼんのうの深かけんもう一ぺんきっと人間に生まれ替わってくる。」