「それはパフォーマンスと呼ばれる」と、トリン・T・ミンハは語りだす。
「演劇、舞踊、マイム、アート、建築、音楽、映画、ビデオ、その他。さまざまな用語が結びつき、交わり合う場から生み出されるものは、名づけという営みそのものに挑戦し続ける」「いわゆる「アート」の境界の内と外に跨るアートは、固定した境界を無にする」と。
※名づけ。
名前もまた、名付ける者たちが形作るある構造のなかの、ある文脈に沿って、人間をその構造のどこかにピンで止めるようにして与えられる。
力は、名付ける者の手の内にある。それを無化する営みとしての、新たな名づけの試みがある。
(ここで、私は、たとえば、ハンセン病療養所における名づけ、在日の通称という形での名づけ、というようなピン止めの行為にも、想いを馳せる)。
パフォーマンス。<名づけの>記号としてのそれは、リズムの作品となる。すなわち、声、身体、空間として示される息。あるいは、音、動き、光。
身振りの振動――沈黙から。空間の響き――暗闇から。生の音楽――静けさから。
パフォーマンスは動きの一つ一つと並んで、動きと動きのあいだの「間」によって決定される。
<演技者>とは、たんに「動く人間」ばかりでなく、動かない人間でもある。
※「間」、能で言えば「せぬ隙」、あるいは目には見えぬという意味での「不在」。
世阿弥いわく「せぬと申すところは、その隙なり。・・・・・・[かようなれども]この内心ありと、よそに見えては悪かるべし。もし見えば、それは態になるべし。せぬにてはあるべからず。無心の位にてわが心をわれにも隠す安心にて、せぬ隙の前後をつなぐべし。これすなわ ち、万能を一心にてつなぐ感力なり」。
■ デュラスいわく
「男たちは沈黙を学ばなければならない」
「話し始めるのは男たちだ。男たちは話し、順序立てて述べ、新しい状況を説明すべく、古い言葉を活性化したり、古い理論法を用いたりすることに助けを求めた・・・・・・」。
■ デュラスいわく
「私が書く時には沈黙がある。私は何ものかが私の内部を覆ってゆくままにまかせる。・・・・・・まるで野性の国に戻る時のように。初めから考慮されたものなど何もない。恐らく私は、何よりもまず、デュラスであることに先んじて、――たんに――女となる・・・・・・」。
※ ここで言う「女」とは、おのれは暗闇のなかの存在だと知り、そこを出発点に、男たちが光と呼ぶものを見つめ直す者である。その気づき、その行為は、みずからが「宙吊りの世界」にいるということを思い知らせる。
(男たちの「光」とは、ロゴスと呼んでもいいのだろう。光は闇を知らない。)
※ 沈黙との出会いはテクストを振動させ、息づかせると言うのは、ミンハ。
「女の文脈では、言語の内部に分けいることと言語から袂を分かつことが、ともに必要となり、発見となり、呪いともなる」。
■ ミンハいわく、
「野性の国。書くという行為が絶えず沈黙という間を求める場所。話が成り立たなくなっても、浮遊し続ける言葉の中から、女の声だけが響き続けるような場所」。
※ ミンハが言うところでは、「デュラスは未知のものに自らを調律するにあたり、最も単純な自分――女である自分――に向き合う。何ものにも占領されない空っぽの裂け目、多価的な変化が可能となる沈黙の空間となる」。
※ デュラスの映画では、書くという行為が「奇妙な話し言葉を生み出す。それは沈黙という内なる領域において作動する話し言葉だ。そこでは、聴く力が話し、声が断片化された語の響きに侵入することが可能だ・・・・・・そうした話し言葉が恐ろしいのは、どんな語りもそれを抑えることができず、その変化も押し留められず、またその内部に開かれるものにいかなる境界も定めえないことによる」(byピエール・フェリダ)
※ 思うに、『24時間の情事』は聴く映画でもあった。デュラスが生み出した話し言葉、そのリズム、その音楽を聴く映画。デュラスの音楽は、聴く者を宙吊りにする
※ 宙吊られていることに気づいたとき、そこに想像的で、創造的な裂け目を見出すのだろう。宙吊られていることそれ自体が、創造の契機となる。あるいは、創造の契機に変える。創造とは、つまり、世界を書き換えること。
■ デュラスいわく
「私が映画制作に従事できるのは、私の映画が殆ど映画とは呼べないものだからだ。主流の映画が求める完全さ(秩序を守るためにのみ用いられる気の利いた技術に示されるような完全さ)には、現に巷に出回っている社会的記号への忠実さが刻印されている・・・・・・主流映画は、一見したところでは、きわめて気が利いているようだが、滅多に賢明なものではない」
■ ミンハいわく
「創造するということは、特定の人格を歪ませたり、作り直したりするだけでなく、人々や諸々のものの関係を一新することから成る。あらゆるものが、間を差異化し、ズラし、明確化し直す中で生み出される」。
※「野性の国」に戻ること。新しい書き方、そして、そこから生み出される新しい感じ方を掴み取ること。既存の知識を無ー知の状態に置くこと。そして宙吊りになること。
■ パフォーンマンスを語って、ミンハいわく
「複数の芸術/文化間の相互作用を可能にする場とは、既に名づけられた諸々のもの、能力、領域が積み重なり、溶け合う場ではない。
それは、異なる文化を横断するさまざまな状況が生み出す新しい多元的能力によって導かれる「発見の場」を指す。
※そこで新たに形作られる「形のなさ」への感受性を思うこと。「形のなさ」に脈打つリズムに体を浸すこと。
演じる体、語る声、差し出されるイメージは、どんな音楽を奏でているのだろう?
じっと全身を研ぎ澄まして、未知の音楽に体と心を開いてみる。