山椒大夫の旅 越後編

8月2日、長岡。今夜は大花火。1945年8月1日の長岡空襲で亡くなった方々の鎮魂のために、1946年8月に第一回の長岡復興祭が催され、1947年から戦争で中断されていた花火の打ち上げが鎮魂の祈りを込めて始まったのだという。さらに2004年10月の中越地震からの復興の祈りも込めて、2005年よりフェニックス花火が打ち上げられるようになったとも。

しかし、まあ、すさまじい花火……。






8月3日、朝10時より、長岡市袋町の知人宅に長岡瞽女の継承者のお二方(室橋さん、須藤さん)をお招きして、知人宅が「瞽女宿」に!

門付け唄の「岩室」にはじまり、「祭文松坂」、そして段物二つ、(山椒大夫舟別れの段、葛の葉子別れの段)、最後は萬歳「柱立て」。 お二人は、最後の瞽女小林ハルさんの系列となる。小林ハルさんは「山椒太夫」をやらなかったのだが、高田瞽女杉本キクイさんの「山椒太夫」に、ハルさんの「段物」の三味線の手で演じてみたところ、見事にハマったのだという。そういうことが可能なのも、基本的にどの段物も同じ手で演奏していたからだという。
最後の高田瞽女は「山椒太夫 舟別れの段」をレパートリーとして持っていたが、その別れの場面が寂しくて、あまりやりたくないと言っていたという。

1970年代、小沢昭一さんが「日本の放浪芸」のあの探訪の旅の途上、当時唯一門付けをしていた長岡瞽女を訪ねてきた。(これ、『日本の放浪芸』のCDに収められている)。それからいろいろな人たちが最後の瞽女を訪ねてきたという。訪ねてきては、それっきりの人も多かったという。目の見えない瞽女は、その人が何を求めてやってきたのかを、すぐに感じ取ったという。それゆえに、多くの人が訪ねてきても、寂しい気持ちを味わうことは少なくなかったようでもある。

継承者のおふたりが演じた萬歳「柱立て」は、三河萬歳の流れを汲むもので、家を新築する際の祝福芸。太夫と才蔵の掛け合い。
友人の家の柱一本一本に宿る神の名を言い連ねてゆく。(この家・土地はいま売りに出ていて、買い手がつけば解体となるのだが、もしや、瞽女宿としてここをこれからも使う手があるのでは! そうだ、そのための瞽女による萬歳「柱立て」だと、一瞬座が沸いた。その家は長岡のなかでも古い町並みの残る一画にあり、大正時代に建てられた長屋のひとつ)。

さて、長岡瞽女の手の三味線による「山椒大夫」を聴いて、安寿と厨子王の旅の気分も盛り上がり、一路直江津を目指した。
「山椒太夫」では、説経節でも、浄瑠璃でも、瞽女唄でも、直江津で人買い船に買われて、海の上で母は佐渡へ、安寿と厨子王は丹後由良へと運ばれていくのであるが、そこから先はいろいろなストーリー展開がある。最も広く知られている森鴎外の『山椒大夫』もさまざまな山椒太夫の物語の一つに過ぎない。たとえば、森鴎外版では、「舟別れ」の場面では、安寿と厨子王とその母に仕える姥竹は海に身を投げて消えるだけであるが、瞽女版では姥竹は海に飛び込むや大蛇に変化して、人買いの山岡太夫を懲らしめる。

というわけで、直江津
そこには安寿と厨子王の供養塔がある。供養塔のある場所は、金比羅さんの境内のはずれ。当初は姥竹の供養塔がまずそこにあって、そこに安寿と厨子王の供養塔も加えた、ということらしいのだけど、そもそもこの古い墓三基が本当に安寿と厨子王と姥竹の供養塔なのかどうかは疑わしい。
思うに、これは、おそらくもともとあった土俗の信仰に、あとから「山椒太夫」が乗っかったのだろう。古くから神社境内にある何者かの墓(おそらくこの土地の有力者の墓だったのではないか)が、安寿と厨子王の物語の寄り代となったのだろう。

そもそも姥竹は、この地では、「乳母嶽明神」として祀られている。
「乳母嶽明神」は、大国主命と契った奴奈川姫(沼河比賣)が建御名方神を産んだ時に産婆役を務めたという姥嶽姫命のこと。
大国主命がいかにして越の国(高志國)の奴奈川姫を口説いたかは、古事記にある。

あるいは、<姥竹ー大蛇>という連関で考えるならば、古事記三輪山伝説を原型とする「姥嶽伝説」が背景にあるのだろう。姥嶽の蛇神との通婚によって生まれる英雄の伝説。

「姥」については、地名として、ある地形を指して、使われることもある。

ともかくも、そういう土俗や、風土や、民間信仰に乗っかった形で、「山椒太夫」の物語が増殖してゆく現場の一つとしての直江津を今日は訪ねたように思った。



↑ この案内板なんぞは、物語に現実が飲み込まれているというか、虚実の境目がなくなってしまっているというか・・・・・・。