こうして説経の異文は生まれる。  @奈良県宇陀市菟田野 日張山・青蓮寺

2020年2月15日 今日は青蓮寺で称讃浄土経(これは阿弥陀経玄奘三蔵による漢訳)の勉強会の第一回。

 

画像に含まれている可能性があるもの:木、空、屋外、自然 この山道を上ってゆけば、日張山 青蓮寺。

 

 今日は、同時に、旅するカタリによる古説経「中将姫御本地」のうち、雲雀山に関わる段を初めて試みに聞いていただく時間でもあった。

OKをいただけば、4月12日、中将姫の命日(4月14日とされている)にちなんで行われる会式で演じることになる。

 

青蓮寺は、中将姫が建立したとされる寺。

そのいわれは――――

 

その概略を書けば、そもそも、いま青蓮寺のある場所(雲雀山)へと、継母のはかりごとのために父によって14歳の中将姫が配流され、家臣松井嘉藤太夫婦が中将姫を庇護した。

雲雀山に庵を作り、松井嘉藤太夫婦の庇護の元、中将姫はここで2年6か月の間、称讃浄土経を写経しながらひっそりと過ごす。松井嘉藤太は中将姫が雲雀山に小さな庵を結んでから1年半で病で亡くなり、その妻は髪をおろして尼となり、中将姫に寄り添い、二人で念仏三昧の日々を過ごした。

そして、あるとき、狩でこの山に来た父が中将姫と再会し、継母のはかりごともばれ、中将姫は都のわが家に戻る。

そののち、中将姫は当麻寺に入り、当麻曼荼羅を織りあげ、極楽往生を遂げることになるのだが、当麻曼荼羅を織りあげた後に、この地を再びおとずれ、一宇の堂を建立、自身の像と、嘉藤太夫婦の像をみずから刻んで安置、日張山青蓮寺と名づけた。

 

さて、この中将姫の物語は、折口信夫の『死者の書』とも、当麻寺に伝わる伝承とも、古説経『中将姫之御本地』とも異なる。

 

われら旅するカタリと関わることで言えば、古説経『中将姫之御本地』では、父・横佩の右大臣藤原豊成は中将姫に死罪に処すこととし、その首を斬り落とすことを命じられたのが、竹岡八郎経春。だが経春はどうしても斬首ができず、いつまで経っても中将姫の首を持ってこない経春の屋敷へと父は軍勢を出して、経春を討つ。

この、チャンチャンバラバラのエンタメ的要素の合戦場面が入るところが、いかにも江戸の初期に説経人形で演じられた物語らしいところなのだが、

それはともかく、古説経どおりでは、日張山青蓮寺の御本尊中将姫の縁起としては、やはり辻褄が合わなくなる。

そこで、ご住職と相談する。

 

◆竹岡八郎経春は、やはり、松井嘉藤太としましょう。

◆合戦は要らないね、でも、合戦のあとからのくだり、つまり、中将姫が雲雀山に来て嘉藤太の妻と念仏三昧で暮らすようになったところから語りだせば、これは切り抜けられるね。

◆会式において演じるものだから、称讃浄土経を写経している場面では、念仏を唱えましょうか。南無阿弥陀仏

◆父と再会して屋敷に戻るところまでが、日張山の物語になるわけで、「日張山の中将姫御本地」とするためには、当麻寺の部分は端折って、物語の締めくくりとして、いかにして青蓮寺が建立されたかを語りましょう。

 

という具合に、日張山ということを意識して、物語を修正してゆく。

 

この作業をしながら、ハッとしたのでした。

たとえば「山椒太夫」。乳母嶽(うばたけ)明神のある新潟県上越では、おそらく祭礼の時に語られたであろう説経祭文「山椒太夫 うばたけ恨み之段」なるものがあり、これは、いかにして、安寿と厨子王一行の御世話役のうばたけが、海に身を投げた後に乳母嶽明神となったのかが語られるという、他に例のない「山椒太夫」なのであるが、うん、なるほど、きっと乳母嶽明神においても、きっと祭文語りとここはこうしてああしてと打ち合わせしながら、「乳母嶽明神御本地」的な「山椒太夫」をつくりだしたに違いない。これは江戸時代のことですけどね。

福島広野の姥嶽蛇王神社も、やはりご当地物の「山椒太夫」伝説を持つが、これもきっとそういうことだろう。

 

と、いままさに、ご当地中将姫御本地を作りながら、そんなことを考えたのでした。

 

こうして説経の異文は生まれる、とタイトルには書きましたが、説経それ自体もまたオリジナルというわけではなく、オリジナルなど存在しない、ご当地の神仏の数だけ、「御本地」の物語は存在して、それはどれもこれもが「本物」なのだということ。それも大事なことです。

青蓮寺の中将姫、当麻寺の中将姫、石光寺の中将姫、「みんなちがっていて、みんなほんと」でいいわけです。

 

 cf)  中将姫御本地  

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