瞽女とおしゃらく。


これは江戸川べりの堤で歌う瞽女。昭和初年頃の撮影らしい。

今日、新小岩のグリーンパレス内の江戸川区郷土資料室まで出かけて、「江戸川区郷土資料集 第12集 瞽女の記録」をコピーしてきたのである。

おかげで新小岩駅に初めて下車。バスに乗って、江戸川高校前を過ぎ、江戸川区役所前で下車。小松川という地名を目にする。ああ、ここが、小松川……と、妙な感慨に襲われる。


さて、目指すは、江戸川区の古文書にあらわれた瞽女の記録。昭和58年刊。

編者のまえがきにこうある。
「この瞽女が、わが江戸川区にも来ていたことを知って驚いたのは、十年ほど前でした。その頃、江戸川区、特に葛西地区では、区の郷土芸能の一つである、唄と踊りの「おしゃらく」を、これからも維持保存していこうとする気運が高まっていました。「葛西おしゃらく保存会」が結成され、さらにこれを東京都の文化財に指定してもらおうととする運動も起ってきたのです。私もいくたびか、おしゃらくの唄や踊りに接する機会が多くなり、(中略)、その度ごとに、そのはげしいリズムや、十分以上かかる歌詞を、朗々とした張のある声で歌いあげる老人(男性)たちに全く魅せられてしまったのです。そこで、その老人の方に、「誰からこういう歌を教わったのですか」とたずねました。すると、彼は、「ごぜのぼうにならった」と答えました。「毎年一定の時期になると、ごぜのぼうはやってきた。村から無あらへまわっていくので、私はそのあとをどこまでもついていっておぼえたのだ」というのです」

瞽女に関する記録が、江戸川区内にある古文書に載っていることを知ったのは、これも十年ほど前のことでした。(中略)これらの記録を見ますと、一之江新田や笹ヶ崎村には、毎年瞽女がたずねてきたことがわかりますし、しかも止宿や雑用の費用を村の公費でまかなっていたという、ちょっと考えられないような事実まで判明しました」

瞽女の費用が公費で賄われたのは、一之江新田が明治三年まで。笹ヶ崎村が明治五年まで。だが、それ以降も瞽女は来た。
この瞽女はどこから来たのか?

編者はかつて瞽女の組織があったという埼玉県とのつながりを推測する。
郷土芸能「おしゃらく」が、埼玉の郷土芸能「万作踊り」と同系統であることもその推測の根拠のひとつ。
「おしゃらく」は茨城の「小念仏」という郷土芸能とも同系統だという。

『葛西風土記』には、こう書かれているという。
「秋のとり入れがすんだ頃になると、茨城の方から『おとよ一座』のおしゃらくがやってきて、惣次郎や佐右衛門、または安左衛門に宿をとると、一晩か二晩、おしゃらく舞と一寸した芝居をやる。入場料が二銭から三銭で、皆見に行く。それはとても楽しいものの一つであった。そのほか三味線を弾いてうたってくる『ごぜ』のおばあさんの門付もきた」(森マツ氏記述)。


戦前に北区界隈にやってきた瞽女は「信太妻」を歌い語っていた、というのは昨年亡くなった詩人谺雄二の幼い頃の思い出。
江戸川をめぐっていた瞽女たちが北区にもやってきていたのだろうか。


「おしゃらく」をググって調べてみれば、以下のとおり。

「おしゃらく」とは身なりを飾るお洒落な衣装の「しゃれ者」や「おちゃらけ者」或は「おしゃらく者」と呼ばれる「滑稽」とか「ひょうきん者」を含む芸能の総称で、お茶楽、お酒楽、お洒落などと書く。「おしゃらく」は雑多な性質を持つ芸能でその内容は流行歌、子守唄、数え歌、念仏歌、民話などから成立っており、念仏講の余興踊りに三味線が加わったものと言われる。昔、葛西地区は半農半漁地区で農民や漁民が仕事の合間に唯一の娯楽として歌い踊り、生活に溶け込んだものであろう。現在は葛西おしゃらく保存会によって葛西まつりや江戸川区民祭りで披露されている。