アラビアの夜の種族

少し眠っては目が覚める、昼夜のリズムと体のリズムがまだ折り合わぬ、バンクーバーの夜。


今日の昼間、ブリティッシュコロンビア大学でのセミナーでは、下記の言葉を出発点として、私は「空白」を生きる、「空白」をつなぐ、ということを語った。



「思えば、若い頃は、記憶を分かち合うことで人はつながると実に無邪気に信じていた。けれど、記憶を訪ねる旅が痛切に私に教えてくれたのは、人は命に関わる大切なことほど語らない、語れないということ。語られた記憶の芯のところには、いつも、ぽっかりと、語りえぬ「空白」。
それは、たとえば、心の奥底にぽっと灯る青い光のようなもの。見えなくとも、言葉にならなくとも、幻のようであっても、確かにそこに在る、大切な何か。
実のところ、「空白」に寄り添い、ひそやかに「空白」を受け渡していくことで、人間は連綿とつながってきたのではないか。そんなふうにも私は思いはじめている。
「空白」にこそ、人が生きるということの秘密が宿っているのではないか、何度でも生きなおしていく人間たちの秘密が潜んでいるのではないかと」
(『生きとし生ける空白の物語』姜信子 港の人)より。



生きとし生けるすべての者たちに寄り添って、夜ごと「空白」から言葉をつむぎだし、ひとりひとりのささやかな「物語」を、ひとつひとつ語り起こす、
語っては消えてゆく風のような「物語」を、風のままに、語りつづける、夜の語り部
そうだ、私は、ボルヘスが語り伝えるところの、「アラビアの夜の種族」なのだ、
(と書くと、なんだか古川日出夫の小説のタイトルのようだけど)、
確かに私は「アラビアの夜の種族」なのだ、
(と、2007年にハワイに旅したときに、飛行機の中で、そこにあるはずもないのに、まるで戒めのように、目の前に降ってわいたように現れた『千一夜物語』(岩波文庫)の第一巻を思い起こしつつ)、
2015年3月28日未明のいま、いまいちど、「語る」ということを「生きる」ということと重ね合わせつつ思う私がいる。



道を見失いがちな私は、途方に暮れて立ち尽くすたびに、2007年に飛行機の中で拾い上げて、今も我が家にある『千一夜物語』を手に取ってみる。


千一夜物語の王様は、人を信じる力を失って、処女を一夜侍らせては命を奪う。その王様に殺されないために、ともに生きつづけるために、シャハラザードは夜ごと王様に物語を語り聞かせ、千一夜語りつづけて、信じる力と生きる力とをふたたび王様にもたらす。シャハラザード自身もそうして生きる力を得ていく。
そんな物語であるからこそ、2007年、移民たちの語りえぬ記憶へと分け入ってゆくハワイへの旅の折に、搭乗前に書店で岩波文庫版『千一夜物語』を買い求めて、みずからにこれは命がけの仕事なのだと言い聞かせたのだった。


ところが、その思いがまだ足りなかったのだろうか、
私が出発前に買い求めた『千一夜物語』を読むのにも飽いて、バッグにしまい込んで、ぼんやりと着陸態勢に入った飛行機の窓からオアフ島を眺めていたそのとき、ふっと眼差しを向けた右前方の座席の下に、一冊の真新しい本が落ちているのを見つけた。その本を拾い上げてみれば、それはなんと岩波文庫版『千一夜物語』。私がバッグの奥にしまい込んだ『千一夜物語』と全く同じ本。周囲の乗客たちに聞いても、誰も自分の本ではないという。
つまり、バッグに私が買い求めた『千一夜物語』が一冊、そしてハワイを目前に機内に突然降って湧いたように現れた『千一夜物語』が一冊。


ああ、これは語りえぬ記憶(=空白)からのメッセージなのだな、語りつづけなければ生きていかれないのだな、と、そのとき私は心底震えた。


我が家の書棚には、常に、2冊の『千一夜物語』が並べて置かれている。


そうだ、確かに私はアラビアの夜の種族なのだ。
(と、眠れぬバンクーバーの夜に、いまいちど自分に言い聞かせてみる)。


千一夜とは、果てしないということである、と、これもボルヘスの言葉。
まことにそらおそろしいことである。