説経の大きな流れ

説経:仏教の法談・唱導から生じ、寺院の周辺で成立したというのが通説である。仏教の比喩や因縁話を物語化し芸能化したのが出発点であったろうが、その転化・物語化の過程は全く明らかでない。


江戸以前:漂泊の芸能。寺社の境内や門前で語られるものだった。

江戸以降:人形芝居として今日の文楽のように人形(但し一人で操る一人遣い)と三味線と語りの三つの芸能が合流して京・大坂・江戸で主に上演されるようになる。

※興行の都市化は、漂泊性と宗教色を消していく。同時に、観衆が増えたことでテキスト出版が可能になる。

寛文・延宝期(1660年〜70年代):ここまでが最盛期。

貞享元年(1684)義太夫節人形芝居のはじまりによって、説経節が淘汰されてゆく。

宝暦10年(1760):「いたはしや浮世の隅に天満節」



説経節生き残りの三つの道筋>

1.佐渡ヶ島に伝えられ、近年まで語り伝えられていた。
2.寛政年間に「説経祭文」として再興された説経節が多摩地方・都内・埼玉県秩父地方に伝えられた。
3.他の芸能に影響を与えた。



<3について、「山椒太夫」の場合>
文楽「山椒太夫横恋慕」「山椒太夫五人嬢」「由良湊千軒長者」
歌舞伎「由良湊千軒長者」


<説経祭文、江戸近郊への伝播の契機>

1.地震  安政2年10月の大地震
安政2年、3年 三代目薩摩若太夫秩父入り。三峯神社参詣、柴原(荒川村日野)の鉱泉宿に逗留、地元百姓坂本藤吉を弟子にする。藤吉は薩摩若登太夫となり、秩父に説経を広める。


2. 神楽師陰陽師)ネットワーク



<説経祭文の幕末から明治にかけての広がり>

1. 車人形 八王子・埼玉県竹間沢
2. 人形芝居  埼玉県横瀬奥多摩川野
3. 埼玉県荒川村白久の串人形
4. 多摩の写し絵
5. 瞽女唄への取り込み
6. 神奈川の念仏唄への影響