いまふたたびの、はじまりの荒野



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「旅と物語」。そんなテーマの会に参加することになって、「遠い東のチャガイ」のことを思い出した。ロシア極東へと流れていった朝鮮人たち、後にスターリンによって中央アジアに追放され、一代ごとに生きる場所を変え、旅を生きてきた人々。高麗人から聞いた話。

 チャガイは日本で言うなら説経語りや祭文語りのような、朝鮮半島では講談師(カムダンサ)と呼ばれた、旅の語り部。彼らは日本で言うなら「吉四六さん」みたいな笑い話である「キムソンダル」の話や、「豊臣秀吉(プンスンスギル)」の話や、義賊「洪吉童」の物語や、そのころ流行の新派のお芝居の物語やらをたずさえて旅して語ったという。

 そのなかでも、「洪吉童伝」。中央アジアのなんにもない、はじまりの荒野に放り出された高麗人を思うたび、私はこの物語を想い起こす。
 
「義賊ホン・キルドンは生涯正義のために戦い、民は彼を愛し敬い、彼は民を慈しんだ。しかし、彼は、朝鮮ではもうこれ以上幸福を求めることはできないと思いなして、仲間たちと彼につきしたがう民とともにユルド国へと行き、新しい国を建て、人々を幸せにした」

 この物語を聴き伝えたある高麗人は、ホン・ギルドンの旅にみずからの旅を重ね合わせてこう言った。

「私もかつて兄弟たちとともにユルド国を探して故郷をあとにした」

 あの頃、私は、旅するカタリ、物語を運んで、はじまりの荒野をゆく「チャガイ」でありたいと願った。

(※ このチャガイという言葉、朝鮮語にも、ロシア語にもない、もしかしたら、車家なのかもしれない。つまり、寅さん。そう思えば、これもまた楽しい。)

 あれからもう十五年ほどの時が過ぎて、私は旅を重ねて、いまあらためて、「旅するカタリ、旅する物語、旅する歌は、いったい何を運んでいるのか、この旅の道は何を結んでいるのか」ということを考えるようになった。

 あの頃は、旅するカタリ、旅する物語、旅する歌は、声を封じられた者たちの言うに言われぬ想いの器、記憶の器、というふうに思っていた。

 だが、いま、極端な物言いをするならば、こんなことを思っている。

 記憶というのはそんなに大事か?
 みずからの記憶を声を放って、文字に記して、語ることはそれほど大切なことか?

 (私は自分自身の「記憶」というものへの無意識にうちのこだわりも問うてる。それは「民族」への囚われにも通じる問いだとも思っている)

 そのきっかけは、東日本大震災であり、熊本地震だった。


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 3・11後、居てもたっても居られず、それまで白河以北に行ったこともない私が、東北を目指した。
 赤坂憲雄さんが発した「東北はずっと植民地だったのだなぁ」という声を聴いたこともそのひとつのきっかけ。

 縁をたぐってたぐって、震災後三カ月にしてようやく陸前高田にたどりついた。それから何度も通った。水に押し流された町に、生きるための水を呼び戻すために、泥と潮にまみれた水道管を洗うボランティアをした。保育所に本を運び、歌を運びもした。

 やがて親しく話すようになった陸前高田の人びとからこんな言葉を聞くようになった。

「あの日、私たちは言葉を失くしました。歌も失くしました」。

 そっと語っては、もうよそゆきの言葉を投げ捨てて、じっと口をつぐんだ。
 震災後あんなに被災地に応援の歌が押し寄せ、さまざまな物語がメディアをとおして発信されていたのに、「あれは違う、違う、違う、あれは私たちの歌ではない、私たちの物語ではない」というひそかな声も聴いた。

「お願いだから、入れかわり立ちかわりここにやってきてはあの日のことを尋ねないで、あの日のことを思い出させないで」という痛切な声も。

 ここに沈黙がある、語られない、歌われることもない空白がある、安易に触れてはならない痛みがある。旅するカタリがたずさえてくる記憶の器であり想いの器である歌にも物語にも、収めようのない沈黙、空白、痛み。


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 そして、熊本地震

 熊本地震の直前に、私は、石牟礼道子さん原作の『水はみどろの宮』の歌い語りの台本を作っていたのだが、いったい何の因果か、それはまさに阿蘇が噴火し、地震が起きる物語だった。

 原作の神話的世界では、放っておけば濁るばかりのこの世の底に、ひそかにかそけき美しき声が流れ、かよわき者、目には見えぬものたちが、滅びの世に向けて千年の祈りを捧げる。その神話的な世界を、旅の祭文語りによる歌い語りの物語として構成したのだが、地震の場面はそのひとつのクライマックスとなる。厄介なことに、これを九月に熊本で演じることが決まっていた。

 陸前高田の沈黙、空白、痛みを知ってしまった今、いったい、どうして、これを熊本で演じることができるだろう? 

 とりあえず、いてもたっても居られず、六月、熊本に向けて、歌い語りの旅に出た。
 京都、広島、北九州・門司港と、『水』を歌い語りつつ、復興支援のカンパを募りつつ、巡礼のように旅をした。

 『水』の神話的世界では、地震に襲われ津波に襲われ水が濁り滞るばかりのこの世を浄めるために、千年狐ごんの守が、深い深い山の胎の底、この世をめぐる命の水の源で、六根清浄、六根清浄、はっしはっしと穢れと濁りをさらいつづける、それはもう千年もつづいている。

 物語の中では、熊本を襲った地震の後も、ごんの守は六根清浄、六根清浄……、そしてついに、「ええーい! よか水の道の通ったぞ!」と、この世の誰にも声の届かぬ地の底で大音声をあげる。地震に襲われ滅びに瀕した生類たちの世界がよみがえる。

 よみがえった世界では、千年狐が、片目の黒猫が、山の木々、山の精が、生きとし生けるすべてのものが、あらゆる命への祈りを捧げる祭りを繰り広げる。 
 この祭りの場面、会場の壁いっぱいに、原作の本の『水はみどろの宮』の挿画を担当した山福朱実さんの絵が投影される。

 このとき、最初はなんだか思いつきのようだったのだけど、私は行く先々で、その土地の人びとに、とにかく、この祭りの場に参加してほしいとお願いした。どうやら、私は、物語それ自体を、祈りの場にしたがっているようだった。

 絵の中へ、物語世界の中へ、神話的時間の中へと、広島でも門司港でもその土地の人びとが入ってきてくれた。ある者は絵の中の黒猫とともに踊り、ある者は山の精となって歌い、ある者はごんの守の歌に合わせてバイオリンを奏で、ある者は鉦を打ち……、

 『水』の歌い語りの場にやってきたひとりひとりがまるで千年狐ごんの守であるかのように、この世を浄めて救う千年の祈りをひそかにはるかに捧げていた。ひとりひとりから、この世のすべての命への千年の祈りがおのずと生まれいずるようだった。

 旅をする、物語を運ぶ、人々が集う物語の場を開く、声を行き交わす、歌う、踊る……、それは祈りの場を開くことなのだ。祈りをつないでいくことなのだ。旅するカタリとは、すなわち旅する祈りなのだ。それゆえに旅する異人は古来神と言われたのだ。

 ふっとそんなことを思った。この六月の熊本への旅では、みなの祈りを熊本にへと届けた。

 そして九月。被災地熊本で『水』を歌い語った。
「ええーい! よか水の道の通ったぞ!」というごんの守の声とともに、その場に水がじゅんじゅんとめぐりはじめたようだった。ここでも、その場にいた誰もが千年のまつりといのりの主人公になったようだった。ひとりひとりの心の裡に、遥かな見知らぬ命たちへの祈りが宿ったようでもあった。

 自分以外のものたちのために祈る、そんな場を、そのとき、この世のどこよりも熊本の人びとこそが必要としているようだった。

 熊本の中でもとりわけ甚大な被害を受けた益城町出身の知人の、「いのりの場を共にしたあの夜、震災以来はじめてぐっすりと眠れた」という言葉を聞いた時、ようやく私は、旅するカタリをすることの意味を知ったようにも思った。


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そこで、話はふたたび陸前高田へ。 
 二〇一一年六月、ボランティアで陸前高田に初めて訪れた時に聞いた忘れがたい話が一つ。
 地震津波に襲われたその日の深夜、高台から何もなくなった真っ暗闇の市街地を茫然と人びとが見つめていたという。すると、その眼差しの先に、不意に、ポッポッと光が現れた。光の数が増えていった。やがて光はまるで生きているかのように列を作って海のほうへと動いていった。それを人びとは静かに見送った……。

 この話を聞いた時、私はサン=テグジュペリが『人間の土地』に書きつけたある叫びを即座に思い出した。それは、飛行機乗りだったサン=テグジュペリが実際にサハラ砂漠に不時着した時の経験を描いた一文のなかに記されていること。広大な砂漠の真ん中で、サン=テグジュペリはわずかに残った飛行機の燃料オイルで焚火を熾して救援を求める狼煙をあげる、そしてこう叫ぶ。

「なぜぼくらの焚火が、ぼくらの叫びを、世界の果てまで伝えてくれないのか? 我慢しろ……ぼくらが駆けつけてやる!……ぼくらのほうから駆けつけてやる! ぼくらこそは救援隊だ!」

 遭難者サン=テグジュペリは、なんと、世界の救援者として声をあげている。このサン=テグジュペリの叫びが、津波の夜の光たちの声のようにも私には響いた。陸前高田の、すべてが押し流された真っ暗闇の中に灯った光こそが、この世界を救うために遥かな地でひそかに灯された光なのではないかと。
 そしてさらに、陸前高田の光に、熊本での千年の祈りが結びついたとき、サン=テグジュペリのあの叫びは、私にとって、さらに豊かでもっと痛切なものになった。

 人は祈る、世界のために人知れず祈る、世界の生まれ変わりを祈る、千年前から、千年先まで、はじまりのために祈る、自分のためにではなく、自分以外の誰かのために、誰にも顧みられぬ遥かな場所で祈る、闇の中で祈る、無数の人びとが祈る、無数の人びとのために祈る……。

 もっとも遠くて、もっとも無力で、もっとも孤独な地にこそ、この世を救う祈りはある。

 祈る者は、救う者であると同時に、見知らぬ誰かなにものかの祈りによって救われている者でもあろう。

 いま私たちが生きるこの社会を、私たちは「記憶の共同体」と呼んだりもするけれど、具体的ななにかを共有することもなく、見知らぬ命への祈りによってみずからが救われるその光景を目にしたとき、「記憶」の共有という言葉の小ささを思う。

 祈りは、わたしたちの記憶への囚われを放つものでもあるのかもしれない。

 傷ついた彼らの沈黙、彼らの空白が求めているのは、確かな記憶なのではなく、正しい歴史なのでもなく、自分のように傷ついただれかなにかへの祈りの場なのだろう。

 旅するカタリとは、祈りの場を開くものなのだということ、祈りと祈りを結んでいくものであるということ。

 思えば、太古、祈りとともに歌は生まれ、物語は生まれ、人ははじまりの荒野を生きたのだった。