坂口昌明は、「翻弄され、たえず涙にくれる、登場人物の力のなさ、これが急所です」と『お岩木様一代記』の背景をなす『神道集』について語る。

『お岩木様一代記』(坂口昌明編 津軽書房)より


地域の鎮守神の崇高さを称える『神道集』の感覚は、現代の私たちが『お岩木様一代記』を理解するのに大切な、鍵のひとつと思われます。


(『神道集』は)はじめその考え方が比叡山系の寺院周辺から流れ出した段階から、山々の霊験にまつわる縁起にまで成長するには、物語僧・琵琶法師・比丘尼・盲僧・聖といった、耳の文芸にたずさわる旅の人々が参加したであろうといわれています。


世界が仏法に包まれている証しとして、里をめぐる山々に、いつかは人が神として迎えられる。苦しみ、悲しみが、放浪のなかでだんだん浄められていく。そのような神聖化をとおして、はじめて解決は訪れるという考え方です。責めさいなむ悪人は悪人で蛇や岩に変身したり、つまりは妨げる神にまつられるでしょう。この考え方は、どんな山間の僻地をも中心に変える精神的な親和力を生みました。

★「この考え方は、どんな山間の僻地をも中心に変える」。これはすごく大切なところ。近代以前、「声」と「語り」と「世界」の関わりは、これなしには語りえない。だからこそ、近代化の過程で、権力を持つ者は、声や語りに縛りをかけてきたのであり、だからこそ、いま、「声」と「語り」を近代の彼方の世界に向けて呼び出すことの意味がある。


神道集』は相当長いあいだ、とりわけ上州を唱導の拠点として山間にらくわえられ、ゆるやかにただよいながら、いつしか聖なる地下水を東日本の各地にしみ通らせていったようです。