森崎和江「同質性のなかの異族の発見」 メモ 「接触の思想」にまつわる話のみ

森崎和江の問い ①>

私たち日本民衆にとって、朝鮮問題とは何なのか。それを思想として問う意味はどこにあるのか。

 

◆ 民族的接近は、底辺の民衆ほど直接的である。

 (つまり、互いを知る前に、双方ともに使い捨て労働力として底辺に閉ざされた。港湾労働、炭坑。そこでの接触、つながりの光景は、もちろんある。)

 

◆日本の支配権力は、朝鮮との民衆的接近に理念を与えるべく、日朝同祖同根論を説いた。

 

◆政治的方便としての日朝同祖同根論 → 日本への同化という形での異民族の受容

 

倭寇のごとき民族・国境を越えて活動した「辺境の民」にとって、生活統合の原理とは、「血縁の原理」ではなく、「共働の原理」である。

 

◆国家的次元に立つことなく、虚心坦懐に異族朝鮮の体質を見れば、日本との同質性の側面も大きく映じてくる。

 だが、朝鮮の異族たる一点がある。朝鮮民族天皇を持たない。

 

森崎和江の問い ②>

朝鮮民族の、天皇なしの統合の原理は何なのか?

 

この問いの背景にある森崎の認識――

◆日本国家の近代化過程で離村し無産化した日本の民衆は、天皇によって象徴される精神構造を再生しつつ移行させることで、あらたな人間関係を形成して一階層になった。

朝鮮の民衆は、天皇の観念なしに、統合していた精神構造を破壊される時に起こった何ものかを共にすることで、天皇制下を流浪し、無産階級になった。

 

◆朝鮮の日常の思想性には、唯一最高で禁忌的対象となるような一氏族の物神化の傾向はみあたらない。

 

◆日本の建国神話は、支配権力による被支配者の占有性の表現へと変更しつつ伝承されていることと対照的に、韓国の建国神話を見る森崎もいる。

 

天皇制なき民族統合」を森崎は追い求める。

近代化、資本主義化と結託した観念、拡大版血縁の原理のごとき「天皇制」とは、異なる、「共働の原理」「日常的接触の思想」を根拠とする民族統合を、苦悩しつつ考え続けている森崎がいる。

ここで語られている朝鮮は、その思考のひとつのきっかけにすぎない。
核心は朝鮮云々ではなく、天皇制のもとに統合される日本民族という存在。

 

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与論島を出た民の歴史』に、より平易な表現で語られていること。

 

「代々民衆は支配された生活の内側で、その労働を通して形而上下の創造性を発掘し伝承する自律性を生かしてきた。その集積が民衆に、民衆固有のナショナリズムの原基たらしめている。その原基に立脚して、支配者の日本的支配原理を打破せずには、日本民衆はどこまで行っても支配者が方向づける支配・被支配の日本的法則から脱することはできない。」

「さながら「おくにナショナリズム」めいた地域性・血縁性が、多様な生活文化系列を生んでいるが、それらが排他性によって維持されている点を内部から破り、伝承的所産に対する相互承認力を育てた私たち民衆の総合性を創り出したい。国家権力によって指示されることなく、その方法論を創造しえた時にようやく被支配階級内の相互差別も思想としてとらえられ、のりこえの端緒につくだろう

 

<国土>と<祖土>

森崎和江が与論で感じ取った、国土の観念に対する祖土ともいうべき観念がある。

「与論出身者が灯をともす神棚は国土守護神の象徴ではなく、彼らの精神の祖土の創造主なのである。(中略)村落共同体は、与論も例外ではないが、例えば、「バカと猫は食いはぐれなし」などと村びとに言わせるように、祖土の共有観念と相互扶助につらぬかれている。が、同時に、その内へ向う意識は反面では排他性となって機能して、与論近辺でも各離島間での感情の疎遠さはさまざまな障害を生んでもいる。そしてこのような共同体相互の交渉や、上部の支配権力との接触は共同体内個人の直接性にゆだねられずに来た。つまり共同体内の特定者に占有させることで日本の社会の二重性は維持されてきたといえる。

 この間接性の打破によって、一般民衆は、祖土と国土の重層性を拒否する手段を得た。国土観念によって統轄されてきた各共同体相互の断層にも窓をあけ得るのである」

 

民衆の自発性がいかに多様な文化系列を私たち日本民衆のなかに開花させるか、へ向って動いていく。

自己の言葉を私たちすべての民衆が持つならば、そうあるほかない。

 

↑ 朝鮮の民、与論の民を見つめつづけた森崎はこのように語る一方で、

  自身の立ち位置を顧みて、次のように言う。

 

祖霊の量感も知らねば祖土の感覚も持ちはしない。あるものはただその欠如の深さである。このような個体を絶対多数者として排出するのが、国家権力・国土観念保持群の意図とするならば、私たちは私たちの固体の持つ欠如感の真偽を自問すべきである。そして更に思う。高度資本主義はより急速に発展して、弱々しい欠如感などはたやすく不毛の地と化すであろう。

(いま、私たちはこの地点にいるのであって、ここから生きなおさなくてはならない)