『民衆における異集団との接触の思想 ー沖縄・日本・朝鮮の出逢い』 森崎和江 メモ

三井三池の争議で与論島からの移住労働者に出会ったことで、森崎和江の眼差しは、さらに沖縄へと伸びてゆく。

 

<沖縄を考える際の森崎和江の前提  日本と沖縄の非対称な関係>

「沖縄と日本の支配権力との関係は、その統一国家をめざした時から常に一方的な関係である。そしてまた内閉的な共同体感覚を持つ本土の一般民衆も、その一方的な関係に従ってきた。」

 

森崎和江の問い>

沖縄および本土の民衆は、民衆の次元における独自の出逢いの思想を確立したのか

森崎は、「民衆は生活共同体の内政ではなくその外政を、自ら把握し創造せんとしてきたのかという異質集団との接触の思想にかかわる側面が気にかかる」

「この問題意識ぬきに支配権力の実態を追求しても、支配権力によって隔離されていた民衆の集団(その伝統的な意識)は、直接的に出逢うことができない」

(隔離されたまま、日朝同祖論、日琉同祖論に容易にのまれるのである)

 

三井三池に搾取されつづけた与論の民を念頭に、さらにこう言う。

「民族観念は国家観念に包含され、地域的固有性の思想化より早く、産業資本によって島民は、分散され無機化されている本土民衆と共に、日本産業の下部構造である請負業の員数へと編入されてしまう」

 

「それによって私たち民衆は、接触の思想が生活文化集団の相互性を獲得し、それを基盤に相互の固有性への不可侵の地点に至り、インターナショナルというものの感覚の基盤を体得する機会を、どうやらまた失うことになってしまう」

 

「アジアへの膨張政策によって朝鮮や中国と接しなが、民衆はその伝統的な共同体感覚によって相手側を侵してしまった」

 

「民衆はその民衆次元における罪を、或る思想の欠落の結果だと感ずることができない」

 

日本の民衆は「おくに(郷里)ナショナリズム」しか持たない。幻想のそれは常に再生産されていて、その感覚への自閉性は、沖縄問題を本質からずらしてしまうのである」

 

「私は、たかだか数百年の統一国家によって固定化させられたおくにナショナリズムに偏向することなく、民衆本来の方法を伝承してきた時間性をたぐり、それの思想化を基盤として沖縄問題に対応したい」

 

ナショナリズムに飲まれることなく、民衆は出会えるのか?

その出会いの思想、接触の思想をいかに紡ぎだすか?

 

◆森崎の思考を辿っていけば、下記のようになる。

日本本土・沖縄・朝鮮、いずれも伝統的な共同体の原理としての<血縁の原理><共働の原理>がある。

資本にとっては、本土・朝鮮・沖縄の人々が入り混じる底辺労働層は、民族など関係ない、ただの労働力に過ぎない。

ならば底辺労働者層は<共働の原理>で結び合うこともできるはず。<血縁の原理>は無効になりえるはず。

ところが一方で、政治支配の方便である<日琉同祖論><日朝同祖論>のごとき観念が、あらたな<血縁の原理>として浮上する。

日本の民衆は、朝鮮・琉球を同族内での蔑むべき異質集団とする、実に近代的な観念を持つことにもなる。

(その例外を、<共働の原理>を生きる例を、『まっくら』に登場するような炭坑に生きた老婆たちに、森崎和江は見出している)

 

三池炭坑における与論島出身群に対して資本が行なった島民と地元民との共働の分離と、地元民の混血の拒否は、近代的労務管理の合理性が、民衆次元での接触の思想の未熟さを利用した例である。

 

★いまいちど、いかにして、<接触の思想>を紡ぎだす?

たとえば、倭寇を想い起こすこと。と森崎和江は言う。

 

異族が、国境を越え、<共働の原理>で結び合い、国家意識など越えていたその姿を想起せよと言う。

 

<共働の原理>が<血縁の原理>を凌駕する、ナショナリズムに囚われない異族との接触の思想、出逢いの思想を持つ民衆であれと言う。

 

「私たち民衆にとっては、食べて寝て子を剥ぐ食むために流した汗の歴史は唯一の資産である。その共働の時間性の思想化が、国家の支配権力によってはばまれていたし、また地域化されてもいた」

 

「私たちはその地域化によって細密化されていたそれを、主体的に確立させつつ、異質な形而上界との接触によって、私たちのナショナリティを確認しあわなければならない。それは民衆にとって自然発生的なものではないのである。」

 

「自然な生を、生存の原点に据えるということと、自民族の確認とは別なものである。そしてその後者は民衆にとっては、国家意識との対決ぬきに自己のものになしえない質を歴史的に持つ」

 

さて、どう対決する?

ここから先は、私自身が生きるべき問い。