キイワードは「習合」。
「習合」を経ることによって「原型」が立ち現われる。(諸言語が混交することによって原型的な言語が生成されるという「クレオール」という概念もそこに重ね合わせたい)。
論の出発点。
柳田國男の民俗学においても、折口信夫の古代学においても、井筒俊彦の東洋哲学においても、来たるべき祝祭学は、純粋な起源を探る学になるのではなく、「習合」の果てにはじめて立ち現われてくる「原型」を探る学にならなければならない。民俗学も古代学も東洋哲学も、列島に固有の信仰、アジアに固有の信仰ではなく、習合の果てに原型として生起する列島の信仰、アジアの信仰を探る学として再構築されなければならない。この場合の信仰とは、いうまでもなく芸術的な表現全体をカバーするものである。来たるべき祝祭学は芸術学と歴史学、宗教学と哲学の交点に形づくられるはずだ。
ここ大事。
起源は過去にしか探ることはできないが、原型とはこれから未来に立ち現われてくる可能性を探ることである。
(唐突ですが、天竜川をさかのぼる旅をしたいなぁ。熊野と諏訪を結ぶ習合の回路。巨大な竜)