佐藤弘夫『アマテラスの変貌 中世神仏交渉史の視座』メモ

神仏習合本地垂迹の問い直し。

(問1)神仏習合は、異質な存在としての神と仏という観念の成立を前提としている、というのは本当だろうか?

 

(問2)本地垂迹の「本地」の仏とはいかなる仏なのか?

 

 

古代、神は「祟る神」であり、「命ずる神」であった。

ここでいう「祟り」とは「神意の現われ」であり、「神意」は人間には計り知れないもの、不意打ちの災いのような形で一方的にやってくる、それを卜部のような者たちが占って「神意」を知ることになる。

 

アマテラスをはじめとするあらゆる「可畏き物」、不可思議の霊力を持つさまざまな存在(=カミ)が、すべて祟りを下す<命ずる神>だった。

 

中世、 神は賞罰を下す<応える神>へと劇的に変貌してゆく

神はあらかじめ人がなすべき明確な基準を示すようになる。

神から「祟り」の部分が分かたれ、「祟り」は物の怪、死霊、悪霊の類の仕業とされてゆく。

 

その背景には仏教の世界観の広がりがある。神は二種類に分かたれる。

◆権社の神=仏の垂迹/賞罰の権限を行使することによって仏法を守護する由緒正しき神(起請文に勧請される神々)  

◆実社の神=悪霊死霊等の神、悪鬼神/国土に満ちて「祟り」をなす存在

 

この「仏の垂迹」を考える際に重要なことは、日本においては「神仏の等質化」が進行したということ。仏と神祇をひとまとめに「神」と呼ぶ例すらある。

cf) 説経節「さんせう太夫」 破れば神罰を蒙る「大誓文」の場面を見よ! 「日本の神」として、伊勢、熊野、石清水などの神々にまじって、「滝本に千手観音」「長谷は十一面観音」と仏たちが名を連ねる。

ここで大事なのは、ここでこうして名を連ねる<日本の仏>たちが、すべて、特定の寺の特定の仏像・絵像として呼ばわれている事。

 

これはつまり、<日本の仏>とは、普遍的な救済者である<釈尊><阿弥陀><弥勒菩薩><観音>といった「他界浄土の仏」たちの“権現”であり、その意味で、仏の権現とされた日本の神々と等質であるということ。

 

つまり、此土の神仏として、神祇(アマテラスをはじめとする日本神々)、日本の仏(仏像や絵像となっている仏たち) があり、

これらの本地として「他界浄土の仏」たちが存在するということ。

 

中世の神仏のコスモロジーを<此岸の神仏と彼岸の仏>という二重構造として捉える

 

中世にみられた、此土の神仏と彼岸の仏という二種類の超越者は、現世での賞罰と彼岸往生という異なる役割を分担していた。

(中略)

その二者を結ぶものが本地ー垂迹の論理であった。

(中略)

本地垂迹とは、狭義の神と仏の関係のみに留まらず、此土の神仏を、他界の仏がこの世の衆生を救いとるために具体的な姿をとって出現したものとみなす思想だったのである。

 

起請文に勧請される日本の<神>には、神祇はもちろんのこと、仏の彫像・絵像から諸天・祖師に至るまで、その背後に「本地極地の如来」=悟りの世界の仏があったといえるのではなかろうか。本地ー垂迹という発想は、中世にあっては仏と日本の神祇を結ぶだけの役割を果たしていたのではない。より広く、此土の神仏と彼岸の仏をつなぐ紐帯となっていた。

(中略)

ここにおいて、中世の冥界の構造を分析するに際して「神」と「仏」という二分法がほとんど意味をなさないことは明らかであろう。

 

そして、此土の神仏は賞罰をつかさどる<怒る神>として、彼岸の仏は来世の救済を事とする<救う神>として、著者は定義する。

この賞罰は、中世においては、古代の宗教的レベルでのタブーの侵犯=穢といったようなことから、此土の神仏への信不信を基準とするようになり、それは具体的には世俗的権力の一つとなった寺社に従うか、反抗するか、が基準となっていった。

 

そして<怒る神>たちの間でもそれぞれの機能を生かした分業体制が確立していた。

 (これは神社仏閣それぞれの神の、それぞれのご霊験のことですね。そこの薬師は目に効く、あそこの薬師は足に効く みたいな)

 

機能分化に基づく諸仏諸神の共存という理念は、国土のそこかしこに神社仏閣があって、無数の神仏が並存していた日本中世の現実に対応し、そうした状況を追認する論理であったことは明らかである。神仏の選択を人間の側の主体的な判断に委ねるこのような理念のもとでは、個々の神仏の権威は著しく相対化されることは必至だった。それゆえ、こうしたコスモロジーからは、世俗のあらゆる権威を超越する神仏の至高性を強調するような主張は生まれるべくもなかったのである。

 

 

神仏習合本地垂迹、中世のコスモロジーをこのように見直すならば、いわゆる「神国思想」もまた、見直されるべきではないのか?

「わが国は神国として仏菩薩が迹をお垂れになった」(沙石集)

「葦原中つ国はもとより神国である。かの宗廟大社の霊神も、多くは諸仏菩薩の権化である」(春日大明神発原文)

 

中世的な神国思想とはそもそも、「末法辺土の衆生を救うために垂迹した神々が存在するゆえに神国である」という主張を柱とする論理にほかならなかった。

 

そして、アマテラスもこのように見直される

 

天照大神は確かに「日本」という限定された空間では「国主」であったかも知れない。だが、中世的なコスモス総体の中でみれば、所詮は日本の神々の筆頭でしかなかった。その外側と上下方向には、さらに広大な神仏の世界が広がっていたのである。

 ⇑ ここ大事。

これに関わる叙述は著者解説にもある。

 

中世人にとって世界や社会の構成員は人間だけではなかった。むしろ仏や神や死者がより重要な役割を担うと信じられていた。さらに中世では、性格と機能を異にする複数の仏神が共存していた。それが「仏土」の観念の多様性を生み出し、その多様性が支配と抵抗、双方の精神的な拠り所となりえた原因であった。

 

※本書での鎌倉新仏教についての見直しも実に興味深い。

 此土の神仏を経ずに、直接に他界浄土の救いの神に直結していく、いわゆる「神祇不拝」の発想。

  それこそ、鎌倉新仏教が異端として攻撃されるポイントであったということ。

 

本日のメモはここまで。