『闘いとエロス』 メモ

 わたしの感覚の創造主である朝鮮の群衆と山河がほうふつと浮かぶ。わたしの心が激しく首をふる。あれをほろぼしてはならぬ、という。あれをにほんで使え、という。

 どこで使うね…… 朝鮮は岩なのだ。

 

 

室井腎(谷川雁)とその地元から来た青年たちの水俣方言の会話、閉じた共同体の閉じた笑顔。

 

 にほんのどこの方言とも自分が緊密でないことは、わたしを二重に孤独にしていた。定着の場のない思いと、この定着しがたいにほんの外に固定している思いである。

 嘔吐がつきあげた。

(中略)

朝鮮は固かった、と思う。農民といえどあんなふうに決して歯を見せなかった、と思う。それは侵入者への抵抗であるといまは知っているけれども、幼時からそれしか知らぬわたしには、その対決のまなざしが母の教えのように信頼される。あれでなければならぬ、と思う。朝鮮は固かった。あの民族の美しさはその岩にある。わたしはこれからの生涯を、大きすぎるズロースみたいなこの追従の笑いにかこまれて生きるのか。それを愛しようとするのか……

 

絶望。これもまた森崎和江の原点。

 

密かな、しかし揺るがぬ抵抗の精神。岩。これも原点。

 

朝鮮のうちなる朝鮮、あのきり立つように冷ややかであったプライドと、わたしはいっしょにやりたいと思う。

 

「見とおしがたたないものだから朝鮮語をやっています」

 

「あたしね、朝鮮を探してきます。きっとそうするから、そのとき、具体的なことあなたもいっしょに考えてもらいたい……」

 

 

この対話は、室井腎(=谷川雁)との間では成り立たない。

男の想像力、そして、それによって形づくられた共同体のなかでは、成り立たない。

 

わたしらは対話ができがたくなっていた。話法を探さねばならない。

 

サークル村、大正行動隊と、新たな開かれた共同体(コミューン)を目指して立ち上げられたはずの運動が、どうして閉鎖的な共同体へと向かっていくのか?

 

反権力集団の体質が、国家原理と類似しがちなのはなぜなのか?

 

あたしは日本の社会構造っていうか、それによる民衆の精神構造っていうのか、人間たちと自然とがかみあって作りあげた総合的な構造に或る限界があって、その内的な欠陥が侵略という形に同調して現われるほかなかったんじゃないかと考えるんです。そして炭坑で闘争を経験して、にほんの組織とか集団の質を知って、やっぱりそうだという気持が深いんです。そこをきちんと論理化して、そして具体化させたい。まだ感じだけしかいえないんです。にほんの意識構造は自己集団内的には矛盾の解決法も生み出せるけど、異った原理との接触の思想をもってない。 P310 

 

エロス

けれども、その組織づくりは、千の万の少女の死臭と歩く。千の万の、夜を歩く。わたしが死に果て、わたしのあとのわたしが果てて、たくさんの男らの、血を吸い、その死骸をあたためながら歩かねばならない。わたしらの組織は一人の少女を強姦し殺した。

 

こうして『闘いとエロス』の中の森崎和江の言葉をたどるのは、

わたし自身があの日、森崎さんから投げかけられた問いになんとか応答したいと思っているからなのだ。

 

ここで語られているエロスには、死の匂いしかない。