到来するわたしたちの世界のために
三人の女がいる。石牟礼道子、中村きい子、森崎和江。この世の数多の声なき声を聞き取り、わが声に潜ませた女たちだ。そして、この三人の互いに交差し、響きあう声に耳を澄まし、彼女らが書いたこと為したことを感受し、名づける四人目の女、渡邊英理がいる。『到来する女たち』とは、この四人の女の時空を超えた共同/協働の賜物。そこには、いまここに確かに到来した言葉と思想がある。
三人の女の交差は、一九五八年に筑豊を拠点として発刊された「サークル村」にはじまる。それは、国家や資本の圧政に抗する者たちが、不揃いのままの「わたし」として、無権力で無支配の関係性を生きる「わたしたち」であろうとして開いた「場」だった。だが、そのような場にすら家父長制は宿り、女たちを新たな思想、新たな文学へと向かわせるのである。
女を黙らせ、孤立させ、周縁を彷徨う「流民」状態へと追いやる世界に、三人の女は抗する。世界を書きかえる言葉を追い求める。それは必然的に、いまだかつてない思想を孕んだ無名の言葉の群れとなるだろう。四人目の女・渡邊は、そこにケアの倫理を見いだした。生類たちの循環する命の世界を感受した。「わたしのフェミニズム」「女の思想文学」のはじまりを見た。
その出発点を石牟礼道子なら、「わたしのアニミズム」と言うだろう。森崎和江なら「エロス」、中村きい子なら「鋼の精神」と言うだろう。分断と抑圧と非対称な関係性に根ざす<家父長制/資本主義/植民地主義/近代>を、三人の女は、「聞書き」によって体得した自他の境を超える声で突き抜けてゆく。そうして語りだされるのは、「他者と溶け合う」ような共同/協働によって到来する「もうひとつの、この世」。近代文学という器には収まりようもない「わたし」と言葉と思想。
それを四人目の女が「思想文学」と名づけ、四人の声で語りだすのである。その声に潜む無数の女の声の群れが、囁きかけてくるのである。
抵抗せよ、共同/協働せよ、到来せよ。
(2025年9月6日東京新聞 掲載)