ひきつづき『原生林に風がふく』
数多くの森崎和江の文章で、くりかえし記される森崎和江の旅のはじまりにまつわる述懐。
朝鮮体験の重さと弟の自死は、私を賢治以前の魂の日本へと、突き放ちました。
私には、言葉以前の、伝承力を感じさせるしぐさについての、ぬきさしならぬ記憶があるのです。
言葉でなく、しぐさの方へ。(簾内) への応答。
それは私のしぐさではありませんが、しかし、それはたとえば村の祭の夜の、念仏剣舞のように、同じ地つづきの地面の上で幼い日のの私の魂が共震したしぐさでした。
(中略)
声もなく、彼らは夕闇のなかで踊っていました。ゆっくりと地を踏み、両手で風を抱き、白い上下の民族服で。女もまじって。
その踊りは夜通しつづきました。チャングは長目の太鼓です。肩から胸へさげて、踊りながら両手で叩きます。夜が深くなり、なお、いっそう「星空と大地」は交流しました。その、共鳴する大地と踊る人。つまりは祈りの姿が、私の原体験風土となっているのです。その世界の内へと、人間は生まれるのだと、おのずから信じてしまっていました。
この生誕を民族的原罪と感じてしまうこと。
植民地を原体験風土とすること。そこに生まれてしまったことを原罪と感じること。
そこに森崎の詩精神の根はある。
私が木に会いたくなるのは、その踊る人にかわってくれる存在として、私の現在を人間の時間とは無縁な樹木によって、浄めてもらいたいからだろうと思います。そして、今となっては、踊る人もまた、何らかの原罪意識に突き動かされて祈りのしぐさをとり、地を踏みならしていたのかもしれぬと、思うのです。
こんな述懐を読むにつけ、森崎和江のすべてはすでに、詩「ほねのおかあさん」に書かれていたのだと思う。
私の長くつづいた心身症の直接の原因は、いわば十年刻みのような皮相な時間内での情況判断のなかでも、また百年単位の如き歴史的変遷のなかでも、なおありのままの自己を表現しがたい私――女としての生――に、なじめぬまま、しかし心は休みなしにその自分を現在の社会へ伝えるすべを探していたためでした。 (中略) 伝達用語はもとより、自分を伝えるしぐさすら、借り物や制服しかなくて、その限界ぎりぎりがつらかった。
「木」
木に会いたい
木に会いたい
カラスが啼く
まだ生きている
カラス
樹液のゆめをみている
天へのぼるつゆの流れ
アリさんが蜜をなめ
コオロギがしずくをすすり
梢ゆらゆら
あさぼらけの葉っぱ
サカナたちが寝息をたてていた
木に会いたい
木に会いたい
カラス
ここは砂山
記憶の海鳴りがする
木のぬくもりの
消えたサカナ
絶えたアリさん
コオロギも骨となり
木に会いたいカラスの
羽
飢えたリボンひらひら
森崎和江は、自身の「旅」を「渇き」に過ぎないと言う。飢えているのだと言う。
はるか昔、樹液の音やアリやサカナたちと話していた幼女の頃、自然と人間の照応を朝鮮をぬすみとったのだと言う。それを森崎和江は原罪と言う。だからこそ、日本の地で、森とカモシカと人間の営みが還流しているような世界に飢えて、そんな世界でのよみがえりをこいねがって、旅を重ねる。
そして呟く。
森のくらがり
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よみがえる力のほかは入山かなわぬ
(詩「森」より 最終連)