初めて森崎さんと出会ったのは2000年代の初め、私が旧ソ連に生きる高麗人を訪ねて中央アジアへと向かった頃のことです。高麗人とは、朝鮮半島からロシア極東へと流れゆき、さらにスターリンによって中央アジアへと追放された人々。植民地と戦争と無数の死で形作られてきたこの近代世界の周縁を彷徨いつづけてきた者たち、とも言えましょう。あの頃、近代世界の周縁へと、分断され打ち捨てられ見えなくされている領域へと、私もまた彷徨いの旅を重ねていました。この世の多くの命にとっては無惨でしかないこの近代を突き破り、生きてゆく言葉を闇雲に探していたのです。そして森崎さんは、彷徨う私にとって、夜空の北極星のような孤高の導きの星なのでした。
初めて会ったその日、宗像の海辺を共に歩き、鐘崎の海女の話を聞きました。海女にちなんでいただいた本、『海路残照』は、人魚の肉を食べたために不老不死となった八百比丘尼の伝説を追って玄界灘から日本海沿いに北上し、津軽を経て松前までの旅を綴ったものでした。それは、国家神道の神々によって追放された、名もなき風土の神々を訪ねゆく旅の書であり、なにより近代国家のナショナリズムと深く結びついた「死の思想」を振り捨て、「生の思想」への道を拓かんとする必死の思いに突き動かされた彷徨の書でもありました。でも、二十年前の私は、そのことを森崎さんと語り合えるだけのものを持っていなかった。
逆に私が森崎さんにしきりに尋ねたのは、森崎さんの生まれ育った地、朝鮮のこと。植民者の子として森崎さんが骨身に刻んだ朝鮮への原罪意識に私は圧倒されるばかりだったのですが、今思えば、もっと大切なことがあったのでした。
なんとも恐ろしいことに、森崎さんのたどった道を追いかけるように旅をして、ようやくのことで、かつて森崎さんとやりとりしたことの意味が分かるんです、長い彷徨いのすえに、森崎さんの「旅」と「生の思想」と「朝鮮」が私の中で一つに結ばれたとき、アナキスト森崎和江が出現したんです、そのことを森崎さんと語り合いたかった、森崎さんが倒れて言葉を失う前に……。
かつて、朝鮮にとっては他者であり異物であるはずの日本人の子、森崎和江の命を愛おしんだ朝鮮の女たちがおりました。森崎和江はまるで朝鮮に孕まれたかのようでした。それはもう強烈な原体験です。やがて自分自身が新しい命を宿した時、森崎さんは身体感覚で「生の思想」をつかみとるんですね。そもそも命とはすべて他者として到来するのだ、命とはすべて「私」に孕まれる「他者」として始まるのだ、とすれば、自他の峻別を基本とする近代国家の言葉で、いったいどうして他者を孕んだ私の物語を語ることができようか、と。
生きてつながってゆく命には、国家を超える新たな言葉、新たな思想。今そう語る私は、森崎和江に孕まれた他者であり、他者森崎和江を孕んで生きる私でもあります。「生の思想」を紡ぎながら生きること、それが私にとっての森崎和江追悼なのです。