2022年11月13日 百年かもめデラックスツアー! @神戸・凱風館 ご報告

これは、私が関わっている「百年芸能祭」に、絶賛参加した「百年かもめデラックスツアー」のご報告。
 
演者は、玉川奈々福浪曲)、安聖民(パンソリ)、仲野麻紀(サックス奏者)の予定だったのですが、玉川奈々福がコロナのため休演となり、浪曲師&曲師の二人が抜けた「デラックス」ならぬ「テラックス」となってしまいました。
しかし、不屈の「百年かもめデラックス」である!
仲野麻紀(サックス・クラリネット・歌)、安聖民&趙倫子(パンソリ)が思いを込めて放った音と声は 二人の不在をカバーするにあまりある空間を呼び出した。
 
 

①オープニングは、「百年の夜の歌」

ふだんは少し口数の多いMCに徹している「口先案内人」が、この日だけは、これから開かれる「場」のテーマとなる詩を仲野麻紀のサックスと安聖民のソリ(声)の流れる中で読みました。
 
この百年の闇を越えて、新たな世界の扉を開く「音」「声」「歌」「物語」を携えてやってくる旅人(異人)たちがやってくる。

 

つづいて、

②仲野麻紀/百年の夜を超えてゆく歌

フランス、アフリカ、中東と境を超えて、近代を突き抜けて、広がりゆく「旅する音楽」。     
それは、けっして声を大にしては語りはしないけれど、植民地主義帝国主義の時代を、つまりは戦争と移民・難民の時代を生き抜いてきたこの世の旅人たちの歌です。
(言葉にしていちいち語るのは野暮というもの。音と歌がおのずと言葉を凌駕する)
 
奏でること、歌うこと、それ自体がこれまでの時代の「鎮魂」、そして、これからの時代の「予祝」。
(さあ、命が命のままに歌いおどる世よ、来たれ!)
 
そんな思いをひそませて、仲野麻紀の「旅する音楽」が凱風館の空気を震わせ、旅人たちの「場」を見事に開きました。

 

③安聖民&趙倫子 

 関東大震災百周年 創作パンソリ「にんご」

仲野麻紀の「旅する音楽」が開いたその場には、見えないモノたちも降り立ってざわめいている。
「旅する音楽」が広げてみせた、旅人たちの彷徨いの世界地図。そのなかにはもちろん、朝鮮から日本に渡ってきた旅人たちもいるのです。
声もなく、名前も忘れられたまま、「恨(ハン)」を抱えて、姿を失くしたあとも彷徨いつづける魂も無数にいることでしょう。
安聖民の「声/ソリ」が、そんな魂たちを極楽浄土へと送り出す。
なんとパンソリ唱者は、自由自在に魂たちにわが身を委ね、ムーダンにもなり、死者たちにもなる。
もちろん、生者の声でも歌います。
その「ソリ/声」は、旅人の証。朝鮮の言葉、日本の言葉が自由自在に流れるように入り混じる。
それは、「ピジン」とも「クレオール」とも呼ばれるものですね。奴隷たちの生きる場所、植民地の民の生きる場所で、故郷を奪われ言葉を奪われ支配者の言葉を身につけざるを得なかった者たちが、生き抜くために創り出した「いのちの言葉」ですね。

 

④ 百年座談

これは、演者+内田樹さんによる、いま演じられたばかりの音と声と歌をめぐる語らい。
ここでの語らいは、まずは、パリを生活の場としている仲野麻紀と内田樹さんの間で、植民地帝国であったフランスに旧植民地からやってきた移民たちが自らの言葉、あるいはクレオール言語で歌い語る光景が生き生きと語られました。
そこから、今さっき、関東大震災百周年をテーマに本邦初公開の創作パンソリとして演じられた『にんご』をいかに聞くべきか、という、とても重要な補助線が引かれていったのです。
「そう、これは、クレオールパンソリだ! その誕生に我々は立ち会ったのだ!」
と、内田樹さんは、「クレオールパンソリ」を発見し、名づけを行った。
発見される前から、クレオールな世界は在日の暮らしの中にあったものですが、
(とりわけ一世たちの暮らしの中に。クレオールゆえに、それが異人のしるしとなって殺されたことも、暮らしの中の記憶)
それが、あらためて発見され、クレオール世界を反映したパンソリが名づけを得ること、それは大事なことですね。きっと、一つの画期として記憶されることになるでしょう。
そして、その名づけまでの過程も含めて、すべては、この「場」が呼び出したものだということ。
「百年芸能祭」関係者として、私にとっては、これもとても大事なこと。

 
私たちには、新たな世界の新たな歌を呼び出す「場」が必要。

「百年芸能祭」はこれからも、神出鬼没、
「場」を開いては、この世に風穴を開ける「百年芸能同時多発テロ」はつづきます。
 
さあ、みんな、ドカンと行くよ、
命はびこる新世界