シンポジウム <グローバルな物語としての「パチンコ」-「在日」の表象と植民地主義の記憶>参加にあたってのメモ

「複雑さを増す社会が織りなす重層的な記憶を、自己完結的な一国民の運命という物語叙述にまとめあげようとする作業は、もはや困難である。」テッサ・モリス・スズキ

 

 

① まず最初に、「パチンコ」に対する感想、もしくは違和感。

 

◆「在日」が自分の生きている場所から語りえなかったことを、「在日」を含みこむ植民地時代からの流民・移民の大河物語として、エンタメとして、成立させていること(とりわけapple tvの映像のほう)への驚き。(こんなことに驚くほど、日本の在日をとりまく表現の状況は厳しいということでもある。)

 

◆素朴な感想としては、

パール・バックの「大地」を読んだときの中国人の気持ち、

屋根の上のバイオリン弾き」を観たときのユダヤ人の気持ち、

を思わず想像する。

ユダヤ人へのポグロムと重なり合う形での朝鮮人虐殺も当然に思い起こす。

 さらにはKKKによる黒人へのリンチも当然に思い起こす

 「小さな巨人」や「ソルジャーブルー」に描かれた先住民虐殺も思い起こす)

 

◆とはいえ、違和感はぬぐえない。

宣教師の一族であること、イサク、ノア、モーザス、ソロモンといった男性陣の日常生活で使われる呼称(少なくとも私はこういうのは聞いたことない)、幼少時から子ども(ソロモン)をインターへ通わせる(身近に子供6人全員をインターに通わせた一家がいるが、インターに通う在日はまだごく少数派。学費は一人当たり年間100万円はかかると聞いている)、さらに外資系勤務という状況。これは、在日社会においてきわめて少数であるのは間違いない。

 

◆「在日」の物語と言いつつ、そこに漂う気配は、コリアンアメリカンのそれのようにも感じられる。

 

★なるほど、原作者のコリアンアメリカンのミンジン・リーによって、アメリカにおいて、「在日」は発見されたのだな。

 

そして、おそらく、アメリカをセンターとする「コリアンディアスポラ」の世界地図に、「コリアンディアスポラ」の日本版として書き込まれた。

 

その際に、

「宣教師」「聖書から取ったカタカナ名前」「アメリカへの強烈な憧れ」といった設定が、コリアンアメリカンがアメリカ人を主な対象とする読者層や視聴者層(テレビでは「ポグロム」としての虐殺」も加わる)に向けて、「在日」を描くときのイメージ喚起の装置として使われているように思われる。

(ここには、誰に向けて、どのように語る、という問題もある。関東大震災における朝鮮人虐殺、騙されて大陸へと慰安婦として連れて行かれる娘たち、民族独立運動と労働運動、そしてそれに対する厳しい取り締まり。これらの原作にはない描写が差し込まれている映像版が、韓国の視聴者を強く意識していることも間違ない。)

 

さらには、在日社会における北朝鮮へのシンパシーが描かれる原作は、それがあくまでも韓国において一般的に流布されてきた認識に基づくもののように思われる。データに基づく実証的なものではないということ。

65年の日韓基本条約を境に日本社会での生きやすさを基準に、韓国籍へと在日が傾斜していった現実などは踏まえられていない。

(80年末から90年初めにかけて、この時代にもなお、韓国・大田で暮らしていた私は、近所の人々に、「日本では朝鮮総連が大きな力を持っていて危険なのだろう?」 と再三尋ねられた。)

 

「在日」の日本における法的地位、朝鮮籍韓国籍にまつわる複雑な国籍の問題についても、それが韓国人やコリアンアメリカンにとっての国籍やアイデンティティのイメージを「在日」の現実に投影した曖昧な記述に終始していること、

在日のありようを法的・制度的に条件づけているものをしっかりと押えずして語られる在日の物語であるということ、

それもまた違和感の生まれいずるところだ。

 

★つまり、「パチンコ」で「在日」を表象するということも含めて、これが英語圏からの発信で初めて世界的広がりを持って発信された「在日」の物語であることを思うと、「在日」当事者としては、違和感と危惧を抱かざるを得ない点は多々ある。

 

 

★同時に、

さまざまな「在日」の物語を増殖させていく契機となる、その扉を開いた物語として評価されべきとも思われる。コリアンディアスポラの世界地図に、どんな「在日」の物語を私たちは増殖させていくことができるか。 それはこれからの大きな課題。

 

 

② そこで、

あらためて、グローバルな記憶、ナショナルな記憶、パーソナルな記憶の再構成の問題として考えてみる。

 

◆まず、そもそも「在日」って何? 一言で言えるはずもない。

 

私たちは、そもそも切断されていて、歴史を俯瞰すること、時系列で語ること、が困難な場所で生きてきた。

 

私が「在日」という日韓のはざまにとらわれた状態から、コリアンディスポラという新たな位置づけに初めて目を開かされたのは、中央アジアの高麗人(コリョサラム)を通してのことだった。

中央アジア、とりわけカザフスタンの荒野(ウシトベ、カラガンダ等々)は、ソ連によって追放されてきた民族が生き抜いてきた地でもあって、コリアンディアスポラに出会うと同時に、チェチェンディアスポラクルドディアスポラといった諸民族のディアポラとの遭遇もあった。かつて、ソ連の権力者たちは、彼らディアスポラの民を「ソ連の歴史に書き込まれる以前には、彼らは歴史を持たぬ野蛮人であった」とうそぶきもしたわけだが、権力の側、マジョリティの側から見れば、「ディアスポラ」の民は当然にそういうことになる。

 

記憶を語る声を封じられ、あるいは都合よく記憶を盗用される。

それが「在日」であるということであり、「マイノリティ」であるということでもあり、「デイァスポラ」ということでもあり、「権力をもたない」ということでもある。

(実は「国民」もまたそうであるということを忘れてはならない。)

 

それゆえ、私たちはいわゆる「歴史」に対抗する「物語」を語りだす。

「歴史」に対する「偽史」を立ち上げる。

そもそも、「歴史」そのものがフィクションであるとしたら、「歴史」と「偽史」との間に真偽の境界線などを引くことはできるのか。

 

重要なのは、語り手が人びとの記憶に対して、命に対して、どれだけ真摯に向き合っているのかということ。問われるのは重箱の隅をつつく真偽論争よりも、真摯であるかどうかということ。「良質な物語」であること。

 

グローバルな物語として登場した「パチンコ」は、韓国のナショナルな記憶と、日本のナショナルな記憶の葛藤の場ともなりうるだろう。

 

◆同時に、グローバルな記憶として語りだされた「パチンコ」は、日本のナショナルな記憶との葛藤を呼び起こしもする。ナショナルな物語が抑圧しているものを、グローバルな物語が解き放つ。

 

世界中でヘイトクライムが蔓延している中での、日本における「在日」の状況、解決なき「慰安婦」問題、関東大震災における朝鮮人虐殺を事実ではないという東京都知事……。

このバックラッシュの時代に、グローバルな物語(国家を超えるネットワークにより構築される記憶の物語)が、日々構築されてゆく偏狭なナショナルな物語に風穴を開ける声となり、力となる可能性もあるはず。

 

植民地支配における朝鮮人に対する抑圧、差別、ヘイト、朝鮮人社会における家父長制の問題、

さらには複合差別の中で生きる道を切り拓いていこうと闘う女たちの物語としても、テレビは観ることができる。

 

とりわけ、映像の最後の場面において、市場で、「美味しいキムチ、あります」と初めて堂々と大きな声で叫ぶソンジャのあの姿を見よ! あの声を聞け!

(あの声を聞いたシンポジウムの登壇者のひとりは、映像版のタイトルは「パチンコ」じゃなて「キムチ」でもいいんじゃない、と言った。)

 

あの場面に向かって、コリアンアメリカンの女性が率いる映像制作陣は、「パチンコ」シーズン1の物語を構築していったのだ。 あの声は、家父長制、ミソジニー等々差別と闘う韓国―在日―コリアンアメリカンの女たちをつなぐ声にもなるだろう。抑圧されている女たちがみずからを解き放つ最初の声にもなるだろう。

 

 

 

◆「パチンコ」から増殖する物語として、われらはどんな物語を書こうか?

つまり、グローバルな物語がすくいあげる記憶もあれば、それによって覆い隠される記憶や声もあるということを踏まえつつ、

個々の記憶や声をいかにすくいあげ、もうひとつのグローバルかつマイノリティの物語としていかに語りだそうか、ということ。

 

そもそもパチンコ業界への在日の流入の勢いがついたのは、60年代前後。パチンコに悪いイメージがついて、日本人が退いていったがゆえに、参入しやすい業界となったこと。

鉄屑、不動産、町工場、友禅、捺染工場等々で蓄積した資本で転業という流れもあったという。

 

たとえば、私なら、「パチンコ」からスピンアウトした物語として、「横浜スカーフ」を書こうか、なんて思ったりもする。

 

小説『パチンコ』下巻で登場する地上げの標的になった在日女性の土地は、元は染め物工場だったということ。これはわたし的にはちょっと面白い。私の母方の実家は捺染工場を営んでいたから。

横浜には「横浜スカーフ」という地場産業がある。横浜スカーフの捺染工場の経営者には在日も少なくなく、しかも「横浜スカーフ」の染めの技術は友禅からもたらされている。友禅の染めの行程で「蒸」と「洗い」という大変きつい労働の部分は戦前から朝鮮人が担ってきたのも知る人ぞ知る事実。

 

「スカーフ」「ヘップサンダル」「焼肉」「鉄屑」「町金融」というタイトルの物語が書けるかもしれない。

「パチンコ」前史であり、「パチンコ」とともにありつづけた物語でもあるゆえ。

 

 グローバルな記憶、グローバルな物語から、どんどんパーソナルな記憶、声、物語を立ち上げてゆく。

めざすのは、一つの物語が培養土になって、次々と、パーソナルな記憶の物語を増殖させてゆくこと。次から次へとさらなる培養土となる物語が生れいずること。