まずはこの絵。タイトルは「記憶の森」。by 屋敷妙子。
ギャラリーの壁面いっぱいに広がる巨大コラージュ作品だ。
現在は中国の武漢博物館に収蔵されている。
この「記憶の森」は、2011年3月11日以降の時の流れのなかで、
2014年4月〜2015年3月までの一年間、新潟日報で連載された姜信子の「語りの声」を追う旅の記録『『平成山椒太夫 あんじゅ、あんじゅ、さまよいあんじゅ』の挿画を毎週描きつづけた画家屋敷妙子が、
その掲載紙一年分のうち、気になる記事、写真を切り抜いては、それをもとに絵を起こし、一枚一枚壁に貼り付けていくうちに姿を現した。
声に導かれて旅をした、その先にはまた別の声があり、声が声を呼び、やがて声は森を形作り、そのなかには、どうやら、私の声もあり、貴方の声もあるようだ、忘れろと誰かに命じられて、力ずくで口を塞がれたとしても、けっしてこの宇宙から消えることのない記憶を声が語りかけてくるようだ、
ここにある、ここにいる、ここにきてほしい、
耳を傾ける者たち、ひとりひとりの記憶の森、この世には無数の記憶の森があるはずなのだと、
旅する物書きと画家はやがて気がつく、
2018年、カナダのバンクーバーで、旅する者たちの記憶を物書きは語ることとなり、画家はその記憶の声に耳を澄まし、ふたたび「記憶の森」を描くことになる。
【記憶の森2018@バンクーバー】
ここでは、記憶は氷河の中に森を形作っているようだ、ところが、ここから漂い出す声は、中央アジアの乾いた土の匂いがする、はるかな旅の歌声も聞こえる、
あなたは知っているだろうか、
封じられた声、踏みつぶされた記憶たちが息をひそめて潜んでいるひそかな森があることを、
ひそかな森には、無数の静かな歌声の流れていることを、
命は踏まれるほどに、生きぬく歌を宿すことを、
目には見えないひそかな森への導きの糸は、絶えることなく歌いつづける命の歌声、
さあ、耳を澄ませて、森へ行こう、
命の記憶のほうへと旅に出よう
◆◆◆
旅のはじまりは、カザフスタンから東京へと送られてきた一編の映像でした、
20世紀の最初の年のことでした、
ウズベキスタンの農村で撮影されたというその映像には、1902年に日本の軍楽隊で作られた3拍子のメロディに乗せて、朝鮮の言葉で望郷の思いを歌う人々の姿があったのです、
彼らは高麗人、
1937年にスターリンによって、日本とソ連の不穏な国境地帯である沿海州から、中央アジアへと追放された20万人の朝鮮人の末裔、
ソ連が崩壊するまで、彼らがその追放の記憶を語ることはなかったけれども、
彼らが歌いついできた望郷の歌が、そこに空白の記憶があることを指し示しつづけていた。
朝鮮の言葉で歌われるその歌を、彼らは朝鮮の言葉で「故国山川」と呼び、
ロシア語で「ノスタルギーヤ」と呼んでいました。
◆
そもそも、この歌は、「美しき天然」という名で、日本の自然の美しさを讃える歌であった。
空にさえずる鳥の声、峰より落つる滝の音
大波小波 滔々と 響き絶えせぬ海の音
ところが、それが植民地朝鮮に渡った時、その歌詞はたちまちさまざまな望郷の歌詞に変じていく、流浪の民とともに遥かな旅を生きるようになる、3拍子の揺れる足どりで。
故国山川をあとに 数千里の他郷へ
山も川も見慣れれぬ他郷に身を置き
寂しく思い起こすは 故郷ばかり
ただただ想うはなつかしき友よ
※高麗人の歌う「故国山川고국산천/nostalgiya」
고국산천를 떠나서 수천리 타향에
산 설고 물선 타향에 객 정하니
섭섭한 생각은 고향뿐이오
다만 생각나오니 정드는 친구요
◆
私は「ノスタルギーヤ」を歌う人々を訪ねて中央アジア、ロシアを漂い歩きました、
2004年、カザフスタンの旧都アルマトゥイで出会った高麗人のお婆さんは、朝鮮の言葉で「長恨夢歌」を歌い、「籠の鳥」を歌った、
それはどちらも「ノスタルギーヤ」と同じくらいに古い日本の流行歌のメロディで、
お婆さんはそれが日本生まれの歌だということは知らない、
植民地朝鮮で盛んに歌われた歌だということも知らない、
とはいえ、ともに長い旅を生きぬいてきた歌は、もはや旅人たちのもの、
出自よりも、そこに宿る記憶にこそ意味がありましょう、
お婆さんは、「古い歌だけどね」と言いながら、「種をどんどんまけ」という歌も朝鮮の言葉で歌ってくれた、
それは1933年に沿海州で生まれた歌、
沿海州の大地に水田や畑を拓いていく希望にあふれた日々の歌、
1937年の中央アジアへの追放後には、塩を吹く乾いた大地を開拓してゆく苦難の日々の歌。
※長恨夢歌(1925年朝鮮にてレコード発売。 日本語原曲「金色夜叉の唄」1918)
〜籠の鳥(日本語原曲は1922年)〜種をどんどんまけ (1933)
◆
南ロシアのロストフで、サハリンから流れてきた韓人の老夫婦に出会ったのは2003年の夏のことです。
彼らは朝鮮語もロシア語も日本語ほどには話せない、
彼らは、サハリンが樺太と呼ばれていた頃に、大日本帝国の臣民として生まれ育った、
そして、ある日突然国境線が勝手に動いて、ソ連市民になった、
彼らはいまでも日本語で「ノスタルギーヤ」の原曲を歌い、日本語の「ふるさと」の歌を歌い、日本語で「ここに幸あり」と歌う、
彼らが懐かしむふるさととは、かれらの記憶のなかだけに今も存在する小さな日本、けっしてたどりつけない樺太なのでした、
ロストフでは、ソ連崩壊後に高麗人にとっては生きづらい場所となったウズベキスタンから流れてきた人々にも出会いました、
しかし、何が生きづらくて、ふたたびの流浪なのか?
ソ連で生きぬくためにロシア語の民となった高麗人にとって、ソ連崩壊後にウズベク語の国となったウズベキスタンは、瞬く間になじみがたい異郷となりました、
ロストフの高麗人は、日本から来た私を歓迎して、韓服を着て「ノスタルギーヤ」を歌い、「モスクワ郊外の夕べ」を歌い、「パンガプスムニダ」を歌い、「アリラン」を歌った、
実を言えば、彼らは「ノスタルギーヤ」よりも「モスクワ郊外の夕べ」のほうが好き、
「パンガプスムニダ」は韓国から宣教師や文化院がやって来る前に、北朝鮮から入ってきた歌。今は宣教師から韓国の歌を教わる。韓国からは教会だけでなく、韓国文化院もやってくる、企業もやってくる、明日への夢がやってくる、
そして「アリラン」、
コリアンディアスポラと言えば「アリラン」、と私たちは連想しがちですが、高麗人にとって「アリラン」は、ディアスポラというよりも、深まりゆく韓国との結びつき、韓国への期待を示す歌のようでもあります、
あの頃、ロストフに、そんな彼らの揺れるアイデンティティの歌声が流れていた、
2011年、東京で、タシケントからやってきた高麗人ジャーナリストが携えてきた、高麗人たちの映像を観ました、
私はその映像で、高麗人たちが、みずからを「韓国人」と名乗る声を初めて聴きました、
それは韓国で上映する目的で作られたプロモーションビデオのような映像でした、
ロシア語をしゃべるタシケントの高麗人たちの口から放たれる「韓国人」という響き、
それはとても不思議な響きでした、
タシケントの有名高麗人ブロガー ブラディスラフ(Владислав) の「実は僕は大人になるまでアリランを知らなかった」という告白を聴いたのは、2018年の初夏のこと。
◆
今もなお旅を生きる者たちは、どんな歌をみずからの歌として歌っているのだろうか、
あのひそかな記憶の森には、今も絶えることなく、封じられて、捨てられて、踏み潰された無数の記憶が息をひそめて潜んでいるのではないだろうか。
今も絶えることなく、力ずくで記憶を盗む者、書き換える者たちに抗う声がそこには静かに静かに響いているのではないだろうか、
誰の耳にも聴こえる大きな声の歌だけが、歌なのではない
耳を澄ませて、もっと澄ませて……
◆
思えば、
私たちが生まれ落ちたこの近代という時代は、線を引いて人間を囲い込む時代であったと同時に、線の外に放り出された人間たちのさまよいの時代でもありました、
放り出された者たちは、放り出された先でもまた、囲い込んだり囲い込まれたり、放り出したり放り出されたりして、生きてきた、
囲い込みの衝動はくりかえしやってきて、
囲い込むたび、囲い込まれるたびに、囲いの根拠としての記憶があてがわれて、
囲いを確かなものとする言葉や歌も作りだされて、
それは果てしない、
囲い込まれたくもなければ、放り出されたくもない、ここでもそこでもない場所で生きてゆきたい孤独なわれらは、縛られるのか、ふりほどくのか、さまようのか、攪乱するのか、おわるのか、はじめるのか、
旅を生きるとは、つねに、そんな問いとともにあるということなのだ、
問いの前には、つねに、はじまりの荒野が広がっているものなのだ、
はじまりの荒野には、ひそかな記憶の森、抗う命の声、
さあ、耳を澄ませて。