『現代説経集』(姜信子 ぷねうま舎)より。
ただし、京都では、京都の声で、本文どおりには語っておりませぬ。
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実を言えば、わたくし、ここのところ、恥ずかしながら「水のアナーキスト」を名乗っております。
どうか陳腐な名乗りだと笑わないでください、本気です。
生きとし生けるすべてのものにとって、
この世界は、
どこかの国家の国民でなければ、まことに生きがたい世界です、
どこかの国家の国民であっても、そう生きやすくはない世界でもあります、
世界が、国家と、国民と、非=国民とで埋め尽くされたのは、
たかだかここ百五十年ほどの間の出来事です、
この百五十年、せめて国民であるほかには生き延びる道がないかのように、
国民でなければ何をされても仕方がないかのように、
すべての理不尽は国家に従わないことから降りかかってくるかのように、
強く 深く 力まかせに刷り込まれてゆく
こんな世界に、いったいいつまで呪縛されていればいいんでしょうか、
まともな生き物は、そんなところにいつまでもいてはいけないでしょう。
だから、私は、命をはぐくむ水だけを信じて、
国家の内も外も境もなく、脈々とのびてゆく命の流れをたどってゆく者です、
この世をめぐる水の声に耳傾けて、水とともに流れて生きてゆく者です、
私は野をゆく、山をゆく、海をゆく、
その昔、錫杖を手に野や山や海をめぐった山伏や比丘尼のように、物語をたずさえて、流れる
水のようにこの世をゆけば、
ほら、旅する耳には、こんな歌も聞こえてくる、
この世の奥を満たす錫杖の響き
言葉を失くした耳たちを
いんいんと震わす永遠の響き
水はみどろのその奥に
まことの花の咲けるかな
いざひと息に身をば投げえーい
六根清浄 六根清浄
むかしの泉 むかしの泉、
千年かけて浄めたてまつる
これはね、二年前の熊本地震の折に、居ても立ってもいられず、
熊本をめざして旅に出たその道で、耳に飛び込んできた 名もなき旅の祭文語りの歌声です、
もともとは熊本の水俣の海辺でひとりの女が歌っていたものです、
女の口から放たれたその歌は、それを聴きとった祭文語りの歌となり、
祭文語りの口から放たれたその歌は、それを聴いた者たちすべての歌となり、
そのどれもが本物の歌で、歌う者聴く者の誰もが歌の主、この世の主で、
歌の数だけこの世には中心がある、物語がある、記憶がある、
歌は水のように変幻自在にこの世をめぐり、生きることの渇きを癒し、
命をつないでゆく、
それは私の祈りであり、私の旅である、
歌を盗み、物語を盗み、記憶を盗み、この世の中心はただ一つだとうそぶいて、水を澱ませる者たちへの、それは私の闘いである、
と、水のアナーキストは小声で呟いている、
こんなことを大きな声でことさらに言い立てるのは、いかにも恥ずかしいことですから、言い立てるまでもなく、この世の奥のひそやかな声、言葉を失くした耳たちの封じられた声をたどっていけば、
それはおのずと、この世に無数の中心をうがつ声のアナキズムになる、
生きとし生けるすべての命を思えば、おのずとそこに水の流れる……。
そもそも、基本的に、私のうちの99パーセントは死者たちの記憶や言葉や声でできあがっております、
そして私のうちの私固有の領分は残りのほんの1パーセントにすぎません、
しかもこの1パーセントは空白、からっぽです、
それは、過去の無数の命と 未来の無数の命のつなぎ目となる空白です、
かけがえのないものです、
私は空白で、空っぽで、果てしない穴で、すべてを受け容れる水路で、
同時に私はそこを流れる水で、
それゆえにかけがえのない私は、
私のなかの死者たちの記憶を盗む者や死者たちの声を封じる者たちに、おのずとひそかに静かに抗うひとつの命なのです、
私は過去の無数の死者たちであり、未来のひとりの死者であり、この世の無数の命なのです。
なのに、近頃、どうしたことか、声が聴こえない、
あの死者たちの声が、時とともにますます聴こえない、
いや、もしや、私は、もともと何も聴こえてなかったのではないか、
別のなにかを聴かされていたのではないか、
いま声が聴こえないというのは、声が盗まれて殺されてかき消されるのが常のこの世にあって、実のところ、ようやく私が正気に返ろうとしている証なのではないか、そんな問いが黒い影のように胸をよぎります。
正気に返るということは、この澱んだ水の中の世界にあって、狂気を孕むということですね、
もうそろそろ潮時だろ、狂っちまえよ、
と黒い影は言っているような気もします、
私はちゃんと狂えるでしょうか?
正気に返ることができるでしょうか?
いま、声たちはどこにいるのでしょうか?
耳を澄まして、じっと澄まして……。
風のアナキストの声を聴く: 仲野麻紀の風のサックス、大いに狂う。
風の声が、私にこうささやくのです。
「そうだよ、おまえ、四の五の言わずに、狂っちまえよ。」