この港で、鐘崎海女の松尾美智代さんと語らった。
お母さんの本田リキエさんと森崎和江さんの交流について、いろいろお話を伺った。
海女唄に
ヤーレ あれが鐘崎の織幡(シキハン)さまだよ ヤレ
見たやたいの 拝またいよ
ヤーレ
沖の瀬の瀬の ズンドウ箱のあわびはよ ヤレ
海女がいらねばの 瀬でくらすよ
この唄にうたわれる「織幡神社」に行ってみた。
宗像に住む知人が教えてくれた。
「ウエットスーツの登場で海女が減り、男の海士(あま)が増えて来たのにつれ全国から民俗学者たちが聞き取り調査にやって来て、必ず訪ねたのが本田リキエ(故人)さんという海女でした。この石像はその方をモデルにしたとのことです。」
本当に本田リキエさんにそっくり。
さらにまた、知人の教え。
「鐘崎の岬コミセンが2003年に宗像市と合併するまでは海女に関する道具や資料を展示した貴重な民俗資料館でした。宗像市は玄海町と合併すると宗像大社世界遺産化に一点集中したために、この資料館の維持には消極的だったようです。恵比須神社の境内には海女が潜るときに使う石や、アワビを見つけても息継ぎに上がらなければ行けないときに、その場所の目印に置いたアワビの貝殻などがふつうにあったそうです。海女さんは潜る前に神のご加護を願って、船べりをアワビ起こしの道具でこんこんと2回叩いたそうです。恵比須様は耳が遠いと言い伝えられていたので気づいてもらうために。深く長く潜れる「上海女」とそうでない「潟海女」というランクがあったそうです。玄海町時代には済州島の城山邑と海女つながりで交流協定を結んでいました。ぼくが12年前に済州島に行った時訪れた済州市の海女博物館には鐘崎海女の本も展示してあった記憶があります。『旧宗像市民俗博物館について』で検索されると宗像市電子博物館に掲載された紹介文が見られます。」
トウ・エベス トウ・エベス
これは今でもやるのだと、松尾美智代さん。本田リキエさんの娘さんで現役海女だ。
「漁師は流れ仏(土左衛門)に会うと大漁の前兆だとして祀る風習があったそうですが、リキヱさんのお父様がそのようにして祀られていたお地蔵さまを末の娘さんに託されました。その地蔵が近所にあります。娘さんは今年92歳で亡くなられました。」
有り難い、知人の教え。